≪内容≫
旧制第一高等学校に入学した川端康成(1899‐1972)は、1918(大正7)年秋、初めて伊豆に旅をして、天城峠を越えて下田に向かう旅芸人の一行と道連れになった。ほのかな旅情と青春の哀歓を描いた青春文学の傑作「伊豆の踊子」のほか、祖父の死を記録した「十六歳の日記」など、若き川端の感受性がきらめく青春の叙情六篇。
主人公は人々の親切にいつも見返りの影を探してしまう悲しさを自覚していて、それを克服しようと伊豆に旅に出る話です。
人の好意を素直に受け取れないというのは、地味に辛いことですよね。
どのシーンも素敵ですが、最後の船室で出会った少年と主人公のやり取りは、すごくきれいでした。
しかし、私が一番好きだなと思ったのは、「青い海 黒い海」なので、本記事ではそちらを紹介します。
青い海 黒い海
とにかく、二人が一つの黒い海のように信じ合いながら、そして二人が死んでも一つの黒い海がなくならないことを信じながら、死のうと思っていたらしいのです。
ところがどうでしょう。私が生き返ってみると、海はまっ青でした。
まっ青な海ではありませんか。
赤かった私の手が白いように、まっ黒だった海はまっ青でした。そう思うと、涙がぽろぽろ流れました。悲しいのではないのですが、涙壺の蓋がこわれてしまったのです。
私が生き返らなかったならば、海はきっとまっ黒だったでしょう。
この話は一人の男の遺書をまとめたものです。
「第一の遺書」は心中の前に、「第二の遺書」は二度目の自殺の前に書かれたもの。
引用文は「第二の遺書」です。
この作品が私はすごく好きで、もうすでに何度も読み返しているのですが、読み返す内に一つの作品が浮かんできました。
川端 康成と交流があった三島由紀夫の小説。
「禁色」で謳われる青春を青春のまま終わらせる為には当事者の肉体が滅びなければならないという思想がこの「青い海 黒い海」にも通じている気がする。
しかし「禁色」にある生命の強さ、というか執着のようなものは、この作品にはありません。主人公の男は、変わっていく世界に対して、自分や自分の思想を別の何かに変容させるのです。
男は時に、一枚の蘆の葉になり、濁ったガスになり、化粧水になる。
彼の思想は芍薬の花になり、蝶がそれを花粉として相手に届けてくれることを夢想する。
男にはきさ子という婚約者がいました。十七歳でした。しかし、彼女は男との婚約を破棄し、二十歳のころ他の男と結婚したのです。
男は思います。
とはいっても、自分は十七以降のきさ子とは会っていないのだから、自分にとってのきさ子は十七歳のままなのだと。
自分が見ている世界と他人が見ている世界は違います。
彼の世界でのきさ子が十七歳だとしても、現実世界でのきさ子は二十歳なのは自明の理である。しかし彼は十七以降のきさ子とは会っていないのだから、彼女が本当に二十歳なのかは分からない。だが、彼の生きている世界ときさ子の生きている世界は同じ現実世界である。
同じ現実世界にいながら、繋がれない。
男はりか子という女と心中を試みます。
「黒い海を見てごらん。私は黒い海を見ているから、私は黒い海だ。あなたも黒い海を見ているから、私の心の世界もあなたの心の世界も、この黒い海だ。ところが、私たちの眼の前でこのあなたと私との二つの世界が同時に一所を占めながら、一向ぶっつかりも、弾き合いもしないじゃありませんか。衝き当る音も聞こえないじゃありませんか。」
離れているから、同じ世界にいても同じように世界を見れないのだ。
ならば、同じものを見ながら終わればいい。
そう思ったのに、いざその場に来てみれば、同じ場所にいて、同じものを見ても繋がれないことに気付く。
川端康成ってめっちゃ暗いですよね?
実はあまりに人気だし、ノーベル文学賞という肩書もあってか、美しく平和な作品を書いてる人だと思っていたんです。
だけど、根底には強い厭世感、諦念感が漂っている。
その仄暗さが表立たないほど、文章が美しいから悲壮感はあまりないのですが、よくよく読み込んでみると「あれ・・・めっちゃ暗くない・・・か・・・?」と思えてくる。
夜の黒い海は、太陽の下では青に変わる。生きるってことは変化していくことです。きさ子も生きている内は、男の視界以外の場所で変わっていく。それは現実的な距離感の問題ではなく、人は一人なのだ。自分が見ているものと全く同じものが相手にも見えるなんてことはないのだ。同じ黒い海を見ても、その意味や感じ方まで溶けあえるわけではないのだ。
そんなことを思った「青い海 黒い海」でした。