岡本太郎→バタイユ→三島由紀夫という典型的な流れになっています。
岡本太郎やバタイユを知る前に三島由紀夫の「春の雪―豊饒の海」を読んだんですが、いまいち響きませんでした。
読んだのが中学生か高校生だったからかなぁ?「春の雪」という言葉の美しさに惹かれて何も知らずに買ったのですが、多分最後まで読めなかったと思います。
それ以来「私は多分、三島由紀夫は合っていないな。」という思考になっていたんですが、私の恩師が好きな作家に上げていたのでもう一度読むことにしました。
「春の雪」は苦手意識があったので、違う作品ということで「禁色」にしました。
たぶん、バタイユや谷崎潤一郎を先に読んでいたことが功を成した気がします。
面白かった!
併存している存在のどちらかを殺さねばならない
この話は、一生を女に裏切られてきた醜い容貌の老作家・檜俊輔が男しか愛せない美青年・悠一に出会ったことから始まります。
俊輔は悠一を金で操り今まで自分を蔑ろにしてきた女達に復讐していきます。
悠一が彼の欲望を彼の現実とするためには、ひとまず彼の欲望か現実かそのいずれかが死なねばならぬ。
この世にはその二つがのほほんと併存することはわかっているが、芸術は敢て存在の掟を犯さねばならぬ。
なぜなら芸術それ自らが存在しなければならないからである。
彼の演技がああまで見物を酔わせたのは、それが完全に人工的なものだったからだ。舞台の相手役の美しいバレリーナに彼が欲望を持たなかったからだ。
そういう破局こそは、青春にふさわしい唯一の破局であり、そういう破局の機会をのがせば、その代わりに青春そのものが死ななければならぬ。
目に映る美しいものはなぜ美しいのか。
その美しさを証明するものは何か。
これはバタイユの各本でも読みましたが、生を讃えるのは死の存在という思考です。
死を感じるとき、人は生への喜びを感じる。
死にながら生きることはできない。そういう点で死と生は併存しない。
すなわち美しさ(芸術)とは併存しないところにこそある。
青春を青春のまま終わらせる為には当事者の肉体が滅びなければならない。
青春と己が併存することはできない。
もし、青春の先を生きようと思うならそれは既に青春ではなく安穏に変わる。
私たちが「私たちの青春時代は・・・」と語るとき、すでに青春は死んでいます。過去の亡きものとして扱っています。
この小説に何を感じるか、どこに楽しみ(?)を感じるか、読み手がどの部分を重要とするかで内容が大きく変わる気がします。
設定は、ゲイの美青年が老作家の願いを叶えるべく女を騙し嘲る一方で、ゲイであることを誰にも言えず苦心していた真面目すぎる青年が男相手にも自分の美をふりかざし、騙し誑かし遊び捨てとやりたい放題に変わっていくという、設定だけでも人の興味をそそります。
加えて悠一は妻子いる立場です。
これを同性愛小説と呼んでも恋愛小説と呼んでも間違いではない気がします。特に主人公が最初は俊輔だったのに、だんだん悠一になっている(俊輔の出番が少ない)ので、老作家目線より悠一目線の方に寄ってしまう気がします。
が、私の中では、やはり俊輔の話です。
俊輔の美学の本。バタイユのように哲学書ではないけれど、三島由紀夫は自分の哲学を小説として表現したのではないかと思う。
三島由紀夫は「併存している存在のどちらかを殺さなければならない」と思っていたのではないか、と思う。
彼の最期はこの心理に基づいているのではないか。
青春の話の通り、自分の信念のためには自分が死ななければならない。そうでなければ信念が死ななければならない。と思ったのではないか。
この世における最高の瞬間
悠一は何の気なしに他人を誘惑し壊していきます。
そんな悠一を利用しようとするも愛してしまった俊輔。
芸術家は万能ではないし、表現もまた万能ではない。表現はいつも二者択一を迫られている。表現か、行為か。愛の行為でも、人は行為を以てしか人を愛しえない。そしてあとからそれを表現する。
しかし真の重要な問題は、表現と行為との同時性が可能かということだ。それについては人間は一つだけ知っている。
それは死なのだ。
俊輔のいう最高の瞬間とは、
この世における精神と自然との和解、精神と自然との会合の瞬間です。
この表現は生きている人間には出来ないと言います。
生きている人間が出来る最高の瞬間は次位に位するものであって、最高の瞬間からαを差し引いたものであると言います。
このα、これを人はいかに夢みたろう。芸術家の夢はいつもそこにかかっている。生が表現を稀(うす)めること、表現の真の的確さを奪うこと、このことには誰しもが気付いている。
生者の考える的確さは一つの的確さに過ぎぬ。
俊輔が悠一に見たものは、もし自分が美しく生まれたときの人生です。
もし美しく生まれていたら、女にひどい裏切りをされることもなかった。俊輔はずっと美に愛されることを求めている。しかし、現実はそういかないので俊輔の表現(小説)はとても美しく汚れのないものになっていた。
悠一を愛することは俊輔にとってとても自然なことでした。
俊輔は悠一をまず自らの芸術作品と見ていたので、芸術家が作品を愛することは何もおかしなことはありません。
こうして彼は最高の瞬間に立ち会えるだけの素材を手に入れたのです。
もうあとは的確に表現するだけです。
悠一が「現実の存在になりたい」と、俊輔の作品から逃れたいと思い訪ねてきた夜、俊輔は最高の瞬間を行為とともに表現したのです。
この瞬間から俊輔の中で悠一は永遠に彼の芸術作品になったのです。
そのさき悠一がどうなろうと俊輔に知る由はないのですから。
悠一は現実の存在になる機会を永遠に失います。このさき、悠一が善良な一市民になり、良き夫となったとしても、精神的には俊輔に作品として隷属していることになります。
彼が作品でなければ俊輔が死んでも拘束できるものはない。
しかし、彼が作品だったからこそ自然な愛が生まれ最高の瞬間に到達したのです。
天晴なり。檜俊輔。
火
はじめて公園へ行ったあの日のように。
・・・大都会にはいつもどこかに火事がある。
そしていつもどこかに罪悪がある。
罪悪を火で焼き滅ぼす困難を諦めた神が、おそらく罪悪と火とを等分に配分したのだ。
おかげで罪は決して火に焼かれず、無辜は火に焼かれる蓋然性を負うことになった。
保険会社が繁盛する所以だ。しかし、僕の罪が、火に決して焼かれないほど純粋なものになるためには、僕の無辜がまず火をくぐる必要があるのではなかろうか?僕の康子に対する完全な無辜・・・。かつて僕は康子のために、生れ変りたいとねがったではないか?今は?
最後はもう一人の重要人物、悠一に関して。
康子とは悠一の妻です。
はじめて公園に行ったときというのは、初めて同性愛者と接触したときのことです。
悠一はその美しさでゲイ界隈で有名になりました。人気もかなりあります。
しかしそれでも彼のしていることは世間的に許されない行為です。現代では「許されない行為」とは言いすぎですが、この作品の時代では"許されない"が当てはまっていたのではないでしょうか。
彼は男と寝ていても、女と寝ていても、何をしていても一向に幸せそうではありません。これが彼が作品である証拠だと思っています。彼の現実は俊輔が持っているので、彼には"現実での居場所"がないのです。
彼は答えを早急に出し過ぎたのではないか?と思うほど迷っています。恐らくですが、ゲイではなくバイだったのではないか?と思います。
男も女も愛せる。
そして、彼が求めていたのは男女という性別の愛じゃなくて人間的な繋がりだったように思います。
美しく生まれてしまったものの宿命といえばそうかもしれませんが、誰もが彼の美貌に吸い寄せられ肉体を求めるが故に、彼の精神はずっと孤独だったのではないかなぁと思います。
実際彼は、彼なりに康子を愛していたと思います。自分の美貌も愛していたけど、二人の間に出来た子供も愛していた。少なくとも彼に傅く男や、彼に言い寄る男女よりも。
私は俊輔の語る美学を重点的に読んでいたので悠一の心の動きに関してそこまで興味がなくサラっと読んでしまったのですが、彼の現実は俊輔が永遠に持って行ってしまったので、これからも居場所なく生きていくのではないかなぁと思います。
最後に「まず靴を磨いて・・・」となっているのは、彼が作品だからだと思っています。作品は美しくなければならない。彼は作品として多くの人から愛されると思いますが、自分からは誰も愛せないと思います。
彼に自覚がないとしても無自覚で作品なのです。
私は岡本太郎、バタイユが好きなので、本書の美学もうっとりするような気持ちで読んでいました。なので解釈は他の人と全く違うかもしれませんが、私の中で悠一を人間ではなく作品として扱うことで全ての辻褄が合います。
そう考えると恋愛要素は一つだってないんですよね。
皆「悠一」という作品を愛でているだけに過ぎない。
こんな小説、後にも先にもないんじゃない?って思います。
他の三島作品を読んでいないので何ともですが・・・。
ちなみに私の悠一のイメージはダルビッシュ有さんです。
私と親友の間で彼は人間を超えて「美しい獣」と称されております。笑