≪内容≫
「1人を殺せば5人が助かる。あなたはその1人を殺すべきか?」正解のない究極の難問に挑み続ける、ハーバード大学の超人気哲学講義“JUSTICE”。経済危機から大災害にいたるまで、現代を覆う苦難の根底には、つねに「正義」をめぐる哲学の問題が潜んでいる。サンデル教授の問いに取り組むことで見えてくる、よりよい社会の姿とは?NHK『ハーバード白熱教室』とともに社会現象を巻き起こした大ベストセラー、待望の文庫化。
「正義」というと、バトルロワイヤルの「そこに正義はあるのか!?」を思い出します。
理不尽な殺し合いに参加させられた主人公は「正義」にこだわります。
今でこそ「王様ゲーム」とか「ダウト」とかこういう類のハプニングホラー(と私は呼んでいる)は、当然(?)のようにありますけど、当時はいきなり殺し合いしろ!っていう設定自体にばかり目が行ってしまって、主人公の「そこに正義はあるのか!?」という問いにはそこまで考えが行きませんでした。
だけど今思えば「そこに正義はあるのか?」がこの作品のテーマだったんじゃないかなぁ?と思います。読者に対して「正義はどこにあるのか。こういう状況での正義とは何か。道徳はこの状況でも必要なのか。」とか・・・。
日常でも「正義」というと過剰な気がしますが、それぞれの「正義」があるから摩擦が起こるんですよね。
人殺しに嘘をつくのは誤りか
私はたぶん嘘について人より潔癖なきらいがあると思う。
嘘のコミュニケーションに対して不誠実に感じてしまう。それが人からしたら空気を壊さないための思いやりだとしても。
なぜかというと、そういう考え方は卑しいと思っているからです。
空気を壊して相手に嫌な思いをさせたくないというのは、はたして本当に相手を思っていることだろうか?というのが私の考えで、自分の意見より相手のしてほしいことを重視することは決して思いやりではなく驕りだと思っています。
「相手のしてほしいこと」を自分は知っているのだという驕りがあるから、「あなたのために」という感情が生まれる。
では、殺人犯が私の家にいる親友を訪ねてきたら嘘をつかずに「いる」ということが正義なのか?
それとも、相手によって嘘をついてもいい人と、ついてはいけない人を決めるべきか。
カントの答えは「ノー」です。なぜなら自分が答えた内容で結果をコントロールすることは出来ないから。そして正しさの根源を傷付けるからです。
なんでもかんでも人に合わせて意見を言う人がなぜ信用出来ないか。それはその人の正しさの価値が低いからです。
では、生きている中で嘘を付かずに生きていけるだろうか。
次にこんな例が出てくる。
あなたは誕生日プレゼントにネクタイを貰った。
それはセンスの悪いネクタイで一生使いっこないとあなたは思った。
こんなとき、「だっせーwこんなん一生使わないよ!」という人がいたら、この人は嘘を付いていないということで正義は守られてるだろうか。
「ステキなネクタイだね!」という人は真っ赤な嘘をつくが、相手の好意を裏切るようなことはしていない。
ここで大事なのは、嘘を付かずに本心を伝えることです。
「ありがとう。こんなネクタイ見たことないよ。」とか「プレゼントなんて気を使わなくて良かったのに。でもありがとう。」などです。
私は「物は言いよう」ということわざを教訓にしています。
嘘は付きたくない、でも相手を傷付けたいとも思っていない。自分も相手もなるべく傷付かずにコミュニケーションを行うために、この「物はいいよう」はかなり使えると思っています。
私はこの行為は誠実だと思っているのです。
マイケル・サンデルはこう言います。
念入りにこしらえた言い逃れは、真実を告げるという義務に敬意を払っている。だが真っ赤な嘘は違う。
単純な嘘をつけば用が足りるのに、わざわざ誤解は招くが厳密には嘘ではない表現を使う人は、遠回しではあっても、道徳的法則に敬意を示しているのだ。
親友が私の家に駆け込んできたら私は全力で彼女を守ろうと思う。
彼女が家に入ってすぐ、インターホンが鳴り彼女を追いかけている人間が「OOは来なかったか?もしくはラインや電話は来なかったか?」と聞かれたら。
「いいや、ラインや電話は来ていないです。彼女に何かあったのですか?」と答えます。ただし、その後「分かった。それで今彼女はこの部屋の中にいるか?」と聞かれたら「いえ、私は何も知らないです。もし何かあったのなら教えてくれませんか?彼女は私の大事な親友なのです。」と嘘を付くでしょう。
大切な人の生死がかかった状況で、自分の正義を貫くことが正義なのかと思うと私はそうではないと思います。
もしあなたが二階にアンネフランクを匿っていたら。
自分が真実を告げることで、彼女達が凄惨な状況に陥ると分かっていたら、真実の価値はどこにあるんだろう?と思いませんか。
私が嘘に対して潔癖なのはこういった重大な状況でもないのに、たくさんの人が簡単に嘘のコミュニケーションをするからです。
自分の信用を自分で失くしていることにも気付かず、相手に対しての誠意を履き違えていると思うからです。
正義と権利について
テキサス州西部の高校一年生のコーリーは、脳性麻痺のため車椅子だったがチアリーダーとして人気を集めていた。
しかし、数人のチアリーダーと保護者の反対を受けチームから外されてしまった。
チームに入るには、他の部員と同じテストを受け、開脚や宙返りといった難易度の高い体操の規定演技をするように求められた。
車椅子の彼女が規定演技をすることが不可能なことは誰もが分かります。
彼女はなぜ他のチアリーダーやその保護者から反対されたのか。
1.彼女の人気に嫉妬したから
2.彼女がメンバーに入ることで他のメンバーが落選するから
3.チアリーダーとは開脚や宙返りが出来ることを指すから
↑
ということが本書でも書いてあるし、私が推定できた理由です。しかしこの問題は嫉妬や不公平だとか、身体能力とかそういうことではありません。
おそらく、父親の反感は、コーリーが本人の値しない名誉に浴し、それが娘のチアリーディングの技量に対する彼の誇りを傷つけていることから生じている。優れたチアリーディングが車椅子の上でできるとすれば、宙返りや開脚が上手なチアリーダーの名誉の価値が減じてしまう。
もう一つ。
プロゴルファーのマーティンは片足に障害があった。そのせいでコースを歩くと出血と骨折の危険性が高くなる。そこでプロゴルフ協会に試合中にゴルフカートを使う許可を求めたが、それは許されなかった。
マーティンは米国障害者法の「活動の本質を根本的に変えないこと」を条件に許可を求めていた。
そこでゴルフの本質とは何か?という問題に発展していきます。
判事はゴルフの本質はショットであり、歩行がゴルファーの体力を奪うとはしなかった。つまりゴルフカートの許可をしても本質は変わらないと判決を下した。
ここで私を含む、ゴルフやスポーツをプロとして行わない人は「全員がカートに乗って移動すればいいじゃん。」と思うと思います。(私はそう思いました。)
しかし、これはプロゴルファーにとっては言語道断だと言います。
ゴルファーたちは、このスポーツの社会的地位を少なからず気にしている。ゴルフでは走ったり跳んだりしないし、ボールは止まっている。ゴルフが高度な技術を要することは誰も疑問を差し挟まない。
だが、一流ゴルファーにふさわしい名誉と承認は、ゴルフが体力を要するスポーツ競技と見なされてはじめて得られる。
人の心って理屈でどうにもならないことがありますよね。
第三者からすれば「障害があるんだしそこまで厳しくしなくても、チアリーダーのコーリーは観客から人気もあるし、ゴルフは全員がカートに乗ればいいじゃないか。」と思えることを、多分訴えた側も分かっていると思います。
だけど、そうじゃない。
何もかもに権利を与えれば本質はどんどん価値を失う。
こういう問題が起きたとき、公平性だけを見るのではなくて本質がどこにあるのかと考えることを学びました。
「じゃあ平等にすればいいじゃない」という簡単な問題ではないんですね。
ウシジマくんFINALの善行は道徳的な価値に欠ける
私が疑問を感じたところが丁度書いてありました。
この永山絢斗演じる竹本の善意はどうなのか?という話です。
世の中には利他的な人間がいる。彼らは思いやりが豊かで、喜んで他者を助ける。しかしカントに言わせれば、思いやりからなされた善行は「どんなに正しく、どんなに感じがよかろうと」道徳的な価値に欠ける。
これは直観に反していると思うかもしれない。
他者を助けるのに喜びを感じるのはいいことではないのか。カントはイエスと言うだろう。もちろん彼も。思いやりを持って行動することが悪いと考えているわけではない。
しかしカントは、他者を助けるという行為の動機(善行をなすことで喜びを感じること) と、義務の動機を区別している。そして義務の動機だけが、行動に道徳的な価値を与えると述べている。
利他的な人間の思いやりは「称賛と奨励に値するが、尊敬には値しない」
これでいうと、ウシジマは義務として金貸しをしています。ゆえに彼の行動は道徳的な価値を持ちます。
「重要なのは善行が喜びをもたらすかどうかではなく、そうするのが正しいからという動機で善行をなすことだ。」
善行が喜びをもたらすかどうかで他者を助けるのなら、それは見返りや報酬を求めているのと同じこと。
お金や物で返してもらうことは卑しくて、喜びをもたらしてねってことは卑しくないのだろうか。
哲学って学ばなくても、生きていれば絶対出会う。
竹本のような人間はたくさんいるし、竹本のように自分を正しいと思って生きている。実際そういう人間は優しいし、気が利くし、目に見えて災厄をもたらす者ではない。だけど、なぜか引っかかる。なぜか100%肯定出来ない。
そういうとき、「なぜこんな善い人のことを好きになれないんだろう?みんな彼女を慕っているのに。ということは私はとんでもなくひねくれているのではないか?」と自分を責めてしまうのは私だけではないと思います。
そんなとき、「いや、そうでもないぜ。」と違う視点をくれるのが哲学書だと思います。生きていれば常に問題は自分で作りたくなくても出来ちゃいます。
忘れることも出来るけど忘れられなくて、自分はダメなんだ・・・社会不適合者なんだ・・・と考え込んでしまう人もいると思います。
人は誰でも悪者にはなりたくない。
でもそもそも「悪者」ってどんな人だろうか。
誠実さとは、空気を読んで嘘のコミュニケーションを行うことか。
良い人とは見返りを求めて善を振りまく人のことか。
私は自分の考えにずっと自信がなかった。
周りの意味のない嘘だらけの会話についていけなくて、みんなが慕う人の嫌らしさが気持ち悪くて、自分はおかしいんじゃないか、とんでもなく悪い人間なんじゃないかって思って、人とコミュニケーションをとるのが苦手だったし嫌いだった。
ハーバード大学の人はこんな楽しそうな授業を受けているんだなぁと思うといいなぁと思っちゃいます。
楽しい講義はオンラインで全世界で受けられるようにならないかなぁ。
ニコ動みたいにコメント付きで。
でも全世界の言葉で画面が埋まっちゃうか。笑
内容が詰まり過ぎてて、この中身でこの値段は安いよなぁ~と思います。
一読ではなぞるので精いっぱい。
慰安婦問題とか、私たち戦争を経験していない世代が謝罪する義務はあるのか?どこに責任はあるのか?
同性婚はなぜ認められないのか?もし生産性を言うなら、精子を持たない男性と子宮を失くした女性は結婚出来ないのか?
「いま」に繋がる正義の話を、たくさんの人としたいです。