深夜図書

不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

エロティシズム/バタイユ~やっちゃだめ(禁止)と言われるとやりたくなる心理(侵犯)~

≪内容≫

労働の発生と組織化、欲望の無制限な発露に対する禁止の体系の成立、そして死をめぐる禁忌…。エロティシズムの衝動は、それらを侵犯して、至高の生へ行き着く。人間が自己の存続を欲している限り、禁止はなくならない。しかしまた人間は、生命の過剰を抑え難く内に抱えてもいる。禁止と侵犯の終りなき相克にバタイユは人間の本質を見ていった。内的体験と普遍経済論の長い思考の渦から生まれ、1957年に刊行された本書によって、エロティシズムは最初にして決定的な光を当てられる。バタイユ新世代の明快な新訳で送る、待望の文庫版バタイユの核心。

 

「ロリータ」といい、海外の古典は難しいです。

なんかこねくり回したような言い回しで混乱してしまう・・・。

しかし内容はすごく興味深かった。

これは読まないで死ぬにはもったいなさすぎる一冊と思う。

常々、なぜ海外の美術って裸体とか多いんだろう・・・と思っていたけど、それは歴史的に向こうの方が肉食だからなんだろうなぁと思いました。

植物にも命はあるけど、米を収穫するのと肉をさばくのって罪悪感の違い半端ないですよね。

 

ただこれまとめるのが非常に心苦しい・・・というか、自分の中でも消化しきれていないのでわかりづらいところも多々あると思いますが、「エロティシズム」を考えるきっかけになればいいなと思います。

 

 

 

人間と動物の違い

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超ざっくり言います。

昔、人間は動物と人間を区別していませんでした。

人間と動物が別れたのは、人間が道具を作り、生活を営み、生活以上の欲求を持つようになったことに由来します。

生活以上の欲求のために人間は社会を作り、労働を自らに課した。

この労働と同時に生まれたのが禁止です。

私が思うにこの禁止が生んだのが道徳です。

「人を殺してはいけない」とか「使者は供養しなければならない」とか「必要以上に痛めつけてはいけない」とかそういうことです。

こういう暴力を禁止しない限り、労働は成り立たない、つまり社会が構成されないということになります。

動物世界は組織ではありません。

これが、動物と人間を別つ基準です。

 

禁止と侵犯

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エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える。

エロティシズムとはこの禁止と侵犯のことだと思います。

私たちは死ぬまで禁止されている物事を侵犯し続けます。

なぜなら禁止されたものを犯すことに喜びを感じるから。

なぜかというと、この禁止が動物的なものだからです。

人がなぜ動物と別つことになったか、それは生活以上の欲求のためでした。

では生活以上の欲求とはなにか。

それは、連続性へのノスタルジーです。

ここでの連続性とは意識のない状態、自他の違いを考える事もない状態、つまり母の子宮にいるとき。

人は生まれたときから不連続な生物なのです。(人はみな一人ぼっち)

動物はなぜ連続なのかというと、動物たちは生活以上の欲求を持ちません。

だからこの連続性への回帰という永遠に敵わない願いに囚われることがないのです。

 

私たちはなぜ連続性のない性行為(出産を伴わない)を行うのか。

それはこのグロテスクな性器こそが動物的だからなのです。

連続性への回帰のため、私たちは動物的な行動を選択します。

これが身近な禁止の侵犯です。

しばしば恋人は、愛する相手を失うよりは殺した方がましだと思ったりする。ときには自分自身の死を望んだりする。こうした激情を動かしているのは、愛する相手のなかに連続性が見出せるはずだという予感なのである。

恋人には、この世でただ愛する相手だけが、私たちの限界が禁止しているものを、二つの存在の完全なる融合を、二つの不連続な存在の連続性を、実現できるように思えるのだ

なぜ、性行為の先に新たな命が芽生えるのにこんなにグロテスクなのだろうと思ったことはありませんか。

人は尿道と肛門の間から生まれます。

生命と排泄、すなわち死とは一直線なのです。

「人を殺してはいけない」という禁止は戦争という行為で堂々と侵犯されています。

エロティシズムってエロイことだけじゃなくて、めちゃくちゃ奥深いようです。

 

 

美は汚すもの

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美の完成は動物性の排除であるのだが、しかしそのような美が情熱的に望まれているのは、美においては所有することが動物的な汚れをもたらすからなのである。

人は美を汚すために美を望んでいるのだ。

美そのもののためにではなく、美を汚しているという確信のなかで味わえる喜びのために、美を望んでいるのである。

(中略)

≪性愛行為とそれらに用いられる器官はまったく醜くて、その醜さたるや、もしも顔の美しさ、当人たちの装飾、抑制されない躍動がなかったならば、自然は人間を失ってしまうと思えるほどなのだ≫。

エロティシズムが禁止の侵犯であるなら、その禁止が美しいほど侵犯は深くなるようです。

つまり、性行為そのものが醜い行為なわけだからそこに"美"という価値がなければ侵犯する気持ちが起きない・・・ということです。

この"美"って人それぞれで、バタイユは男目線でしか書いていないので女はじゃあどこに"美"求めるの?どこ侵犯するのって感じなんですけど、これが書かれた時代からして、恐らく女性が性行為を行うこと自体が禁止であり、男性に侵犯されることによって自分も侵犯している・・・ということなのかなと思います。

 

こう言われると、なるほど。なぜ男性が「キレイなお姉さん」が好きなのか分かりますね。美女と野獣のようなカップルがいるのもうなずける。

女性にとっては性行為自体が侵犯であり、男性の美醜には左右されないということになります。

男性にとっても性行為自体侵犯になりますが、その深さが相手の美しさで決まるわけです。

より深く汚す喜びを得たいなら、より美しいものを選ぶしかないということですね。

 

性行為とは殺人と言いますが、これってちょっと分かる気がします。

客観的に見たら、汗だくになりながら突きまくる行為って暴力に見えますよね。女性が実際喜んでいようが攻撃されているようにも見えるし。

なんか当たり前だから疑問に思わなかったけど、これって愛してるのに攻撃するって矛盾に見える。ちょっと異常にも見えます。

ただ他にも赤ちゃん作るやり方あったでしょ神様、とか思うけど禁止と侵犯とを考えればこの行為を動物的にしなければそこに連続性が見出せないわけだから、性行為自体をしなくなる可能性があったということになりますよね。

だって動物は本能のまま子孫を残すけど、人間は感情や社会のために子孫を残さない可能性だってある。

だからこそ、性行為や性器の醜さはあって然るべきものなのだな~と思いました。

 

結局、禁止があるから侵犯が生まれるわけです。

禁止がなくなれば侵犯も生まれない。

児童をテーマにしたアニメの規制について賛否両論がありますが、この理論からいけば禁止にしたら侵犯が生まれるわけです。

「こういうアニメや漫画が犯罪者を産むから規制すべき」という意見に沿って規制を強めれば、更に価値は上がります。

侵犯するときの喜びが深くなるわけです。

じゃあ、禁止せず野放しにしたらどうなるか。

これは暴力が野放しになるのと一緒で禁止の境目である二次元と三次元の違いが曖昧になる可能性もあり得ます。

 

じゃあ現在、野放しなのかというと違いますよね。

ゴールデンでは健全なアニメを放送しているし、児童ポルノレベルってコミケとか、虎の穴とかじゃないですか。(多分)

なので禁止はされていると思うんですよね。

禁止しようがしまいが、犯罪起こす奴はいます。

現在全く野放しに児童ポルノが溢れていたら、禁止すべき!と思うけど、全部禁止にしたら更に侵犯の価値は高まるだけです。

 

何でもかんでも禁止にしたらそれだけの侵犯が押し寄せてきます。

 

 

他にもキリスト教についてとか、サド侯爵についてとかもっと色んなことが書かれています。

世の中は矛盾だらけです。

でもその矛盾や当たり前に耳を傾けるのは自分次第です。

ここまで読んでくれてまだ「エロティシズム」を読んだことがないのならぜひ一度読んでみてほしい。

宗教も儀式もエロも戦争も、エロティシズムを知れば違う解釈もできると思います。