≪内容≫
メキシコ時代最大の問題作といわれるルイス・ブニュエルの不条理劇。オペラ観劇後の晩餐会。20人のブルジョアが宴を楽しんでいるが、夜が更け、明け方になっても誰も帰ろうとしない。謎の幽閉状態は何日も続き、やがて人々の道徳や倫理は崩壊していく。
これ好きだわ。
よく分からなくて二回観て、ところどころ何回か観なおしました。
シュールレアリスム
私、シュールレアリスムとマジックリアリズムの違いがよく理解出来ずにいたんですが、この作品をきっかけに真面目に考えてみました。
この映画は
オペラ観劇後の晩餐会。20人のブルジョアが宴を楽しんでいるが、夜が更け、明け方になっても誰も帰ろうとしない。謎の幽閉状態は何日も続き、やがて人々の道徳や倫理は崩壊していく。
という内容で、まさに謎の展開になっていきます。
「なぜか・・・ここから出られない!」という謎。んで、これがマジックリアリズムになるなら、ここが大筋ではないんだと思います。こういう謎が副菜的な扱いになるのがマジックリアリズムで、シュールレアリスムは大真面目にこの謎が主食です。
好きだな~と思うのは、ここに答えがないからです。
「なぜ出られなくなったのか?」は問題ではありませんので、答えはないです。何かきっかけがあるのかもしれないし、誰かが仕組んだのかもしれないし、はたまた神様のいたずらかもしれないし・・・と、とにかく色んなことが想像できる。
シュールレアリスムって人間の無意識の世界なのだそうです。
そう考えるとこの映画ってすごく面白くって、ちょっと「蠅の王」とデジャブったんです。
この作品は無人島に流れ着いた少年たちの話なのですが、個人的にバタイユを感じる作品。
そして、本作も「エロティシズム」と書かれてるので、たぶんバタイユに通ずるものがあると思います。
何日間閉じ込められていたか分からないのですが、一番最初の画像の部屋にずーっと寝泊まりしてるわけなので、絶対臭いますよね。トイレがあるのが幸い。それにしても女性陣の髪型は全然崩れない。外人だから?絶対ぺちゃぺちゃなるじゃんね。
にしても、映画は匂わないので、こういう台詞をいれてくれるとすごくうれしい。
どんどん理性は壊れていきます。
彼らはブルジョワですから紳士淑女なはずなのです。どんな時でも品を忘れないようにね。ふふふ・・・とか言って生きてきた人達。そういう理性が本能によって剝されていく。
空腹と悪臭と不衛生とストレス・・・彼らの精神状態はどんどん追い詰められていきます。
そこに現れた三匹の子羊。メェ~。ちなみに小熊も一匹います。彼らは冒頭ですでにキッチンで待機させられていました。会話から推測するに何かのショーに使う予定だったのかもしれません。
しかし、三匹の子羊は救世主です。
空腹のブルジョワ達には最高の獲物です。
人間、いかにブルジョワとはいえこうなったらいつもは見下して野蛮人だの未開人だの蔑んでる人間と同じことする。
更にはこの惨劇を終わらせるために生贄を作る。
この晩餐会の主催者夫婦の夫・ノビレを殺せばこの惨劇が終わる、と。そしてそれに反対した先生も殺せ、と。
何の根拠もないけれど、彼女が異世界から受け取ったメッセージによるとそういうことらしいです。
結局、とある方法によって部屋からは出られて、彼らは神に祈るため教会に行きます。しかし、ここでもまた惨劇が。
今度は教会から出られなくなるのであった・・・。
出られないのはなぜ?
答えはありませんが、個人的に思ったのは物理的に出られないのではなく、心理的に出られなくなった、ということです。
金田一少年の事件簿的に言う「心理トリック」みたいな感じです。
たぶん出れるんですよ。一歩踏み出せば。
だけど、皆が誰かの後についていこう精神なので、ダチョウ倶楽部のどうぞどうぞを永遠にやってる感じ。
彼らは責任を取りたくないのです。
ただ遊んでいたい、楽しいこと大好き、辛いことはいや。贅沢三昧で生きてきたわけですから、誰かに指示されるのもいや、先陣切って動くのもいや。
だから彼らの台詞はたくみです。
巧妙なる言い回し。
「帰って」とは言わない「やだ~帰ったかと思ったぁ~」「帰ろうと思ったんだけど~ラウルさんの話が面白くってえ~」的な遠回し、かつ他力本願、責任転嫁。それを全員がすることによって次の一歩がどんどん遠のいていく。
彼らが閉じ込められていた時間はそういう遠回し行動と比例するのかもしれません。
教会に向かう羊
閉じた教会に向かう羊の群れ。
これまた食べられちゃうんだろうな~と思うのですが、羊はなぜ教会に向かうのか。
これが象徴しているのが生贄だと思うのですよね~ブルジョワの影に死んでいく者たちのメタファー的なものを感じてしまう。
上が無責任だとダイレクトに市民に被害が降りかかるし、その火消しに使われるのもまた市民なのである。・・・という皮肉かな?と。
ちなみに、閉じられた教会の外では市民たちが銃撃に晒されている。
意味不明。門の前に銃を持った警備隊(?)がいて、銃を持ちながら市民を追い払う人間と、それから逃げる人間に分かれている。
その前の建物には、壁に沿って人が列をなしている。意味不明。
題名の「皆殺し」に相当するのはこのシーンしかない。
この追われてる人たちの中にヒシャブをつけてる女性が何人かいるんですよ。
んで、警官たちは建物から彼らを引き離すようにしている。
宗教弾圧?的なものなのかな。
これ冒頭に「プロビデンシア通り」と出てくるので、場所はチリなのかな。
調べるとチリはほとんどカトリックのようです。
さらに調べると、この「皆殺しの天使」は元々「プロビデンシア通りの遭難者たち」というタイトルだったらしく、プロビデンシア=神意という意味があるみたいです。
つまり神の意志の前に理屈なんかあるもんか!ってことですかね。出られなくなった理由とか、羊とか熊の理由とか、そんなん分かるか!みたいな。
すごい水を差すようなことを言うけどシュールレアリスムが人間の無意識の世界を表現するってことだって言っても、それを表現するにあたってどうしても他者との言語によるコミュニケーションが入るわけだから、無意識は出発時点からどんどん削がれて結局、演者とか監督とかの共通意識になっちゃうと思うんです。
他者が入るっていう感覚は無意識じゃないじゃん、って思っちゃう。それこそ無意識ってエヴァで言うL.C.Lクラスの世界観(最近読破した)に思えるので、無意識を意識してるが故に意識的・・・的な。
私的には、夢で見た世界を再現しようとしても、手に取ったり目で見たりっていう五感的なプロセスが入るとそれは無意識じゃないんですよね・・・。
私はよく夢を見るけど、その中で恐怖や不快感はあっても、匂いとか温度ってないんですよ。これ昔から何でだろう?って思ってたんですが、私だけかもしれない。
起きて寝違えたり大量に汗をかいたりしてるのも、寝てるときは感覚が無だからだと思うんです。痛みとか温度を超越した世界。だから絵画では表現出来ても、映画や小説だとどうだろう?と今のところ謎に思ってます。
意識があるときに思うことって、結局のところ遺伝子からの情報なり、今まで生きてきた中の記憶だったりから組み合わせてるに過ぎないと思ってる。
もっと美術勉強した方がいいな・・・。