≪内容≫
僕の兄は罪もない人々を殺した。何が兄の中に殺人の胎児を生みつけていったのか?―四人兄弟の末弟が一家の歴史に分け入り、衝撃的な「トラウマのクロニクル」を語り明かす。暗い秘密、砕かれた希望、歴史の闇から立ち現われる家族の悪霊…殺人はまず、精神の殺人からはじまった。村上春樹渾身の翻訳ノンフィクション作品。
訳者あとがきより
僕にわかるのは、この物語を読んだ多くの読者が、本の最後のページを閉じたあとで、おそらくはそれぞれのゴーストに向かい合うのだろうということだけだ。多かれ少なかれ、向かい合わざるを得ないだろう。もちろん僕も、その「向かい合わざるを得ない」読者の一人であった。
私も向かい合わざるを得ない読者の一人であり、その呪いに障った一人であると思います。
この本を読むことは(もしくは読破すること)、自分の中の何かが強制的に変わることになると思います。私は割と頑固な方だと思うけど、それでも自分の内側をものすごい勢いで揺さぶられてるような感覚がありました。
訳者の村上春樹氏が本作と「冷血」を比べて話をしていたのですが、私も本作を読みながら「冷血」を思い出していました。
「冷血」はまだペリーとカポーティに血の繋がりはありませんでした。
しかし、本作は血の繋がりもあって、「冷血」よりも否応なく入り込んできます。「冷血」でもものすごい衝撃や痛みがありましたが、本作はそれを上回ります。
私は割と普通の、世間でいう「幸せな家庭」で育ってきました。
おそらくそのおかげで私は世の中の歪みに対して正論でしか答えられない人間でした。
正論っていうのは、時にものすごく冷たいです。
なぜなら正論は有無を言わさぬ力があるからです。
正論を使う人間に何もなくても、正論自体にバックがついているイメージです。
それがその人の血肉から生まれた言葉でなくとも、効力をもたらすのが正論だと私は思っています。ゆえに、人の心に一番響かないと言われるのだと思います。
そしてだからこそ、そこに血肉をつけなければならないと思うし、その努力無くして正論を使うべきでないと私は思うのです。
暴力はいけない、殺人はいけない、愛は暴力じゃない・・・そんなことは当たり前で常識で分かりきってることである。
でも、果たしてその概念はどこから生まれてきたのだろう?
誰に教わって、どこで培ったのだろう?
もしもそれが生まれる前から備わっているものなら、なぜ殺人や暴力という言葉があるのだろう?
幸せな家庭に生まれる、というのは一つの幸運である。
が、そこから得られるものだけで生きていくのは幸せと同義ではない。
幸せな家庭に生まれなかった人が、そこから得たものだけで生きていくことと同じように。
どちらの家庭に生まれようとも、そこから得られるもの以外のものを受け付けず、間違っていると否定し、有り得ないと撥ねつけるには人生は長すぎる。
時に、人は家庭環境によって人を決めつける。
幸せな家庭に生まれたなら、何も別に不幸を知らなくてもいいのだ、という人もいる。
自分にないものを背負い苦しむことを偽善という人もいる。
彼らの意見は間違っていないと思う。
私がしたいのは、誰かを救いたいとか、分かち合いたいとか、そういうことではなくて、社会で生きるために必要不可欠な言葉に、出来るだけ優しさや暖かさを、そして自分の媒体になるような血肉をつけたいのです。
言葉は非常に簡単に使われます。
当たり前のように身に付けられるものの一つだからです。
だけど、よくよく見て見れば(考えてみれば)その人が選ぶ言葉にその人が出ると私は思っています。
それくらい言葉には力があって、尚且つ簡単なのです。
だからこそ、言葉の意味や本質を理解するために、向かい合わざるを得ない物語にぶち当たるのは必要不可欠だと私は思います。
前置きが大変長くなりすみません。
本題に入ります。
なぜ誰かを傷付けなければならないのか
著者の兄ゲイリー・ギルモアは殺人の罪で死刑になった。
しかしそれまでに彼は多数の犯罪を重ねており、人生の大半を監獄の中で過ごした。
彼の出所のための費用を家族たちは何度も捻出したし、彼が出所する度にもう二度とこんなことは起こらないだろうという希望を抱いた。
だけどゲイリーがシャバで大人しくしていた期間はほとんどなかった。
何度も罪を犯す人間が刑務所には入りたくないと言う。
私は、じゃあ罪を犯さなければいいじゃないか、と思う。
刑務所とは罪人を収容する場所であるので、罪さえ犯さなければ入ることはないし、逆に入りたいなら罪を犯せばいいのだ。
実に単純である。
だからこそ、ほとんどの人間はそれを理解し回避する。
理解出来ずに繰り返す人間を愚か者と認識する。
何の関係もない人間を殺す人もいれば、道連れにして自殺する人もいる。
こういった行動を私は長年疑問に思っていたのだけど、本書の中には私の疑問を解いてくれる一文があった。
一度檻の中に閉じ込められると、人は憎しみに満ちた人間になっちまうんだ。そしてもしその憎しみを外部に向けることができなければーあるいは機関銃を持って銀行に押し入って片っ端からみんな射ち殺してやるというような妄想がうまく機能しなければ―人は憎しみを今度は自分自身に向けるようになる。そういった自己破壊傾向が高まると、今度は誰かをけしかけて自分を極限まで追いつめさせるようになる。そのためには誰かを目一杯痛めつけるか、あるいは怒り狂わせるしかない、という場合だってあるんだ
この引用文における檻というのは少年院のことで、1950年代における少年院の試みはこのように書かれている。
少年たちは寒々とした孤立した場所に閉じこめられ、教官たちの気の向くままに打ちのめされ、目を覆うような暴力と性的虐待に満ちた環境に置かれていた。人によってはそのような世界に監禁されることで、恐怖と憎しみがただ深められただけだった。
なぜ暴力が生まれるのか。
暴力の発生源を考えるとき、それは憎しみだったり恨みだったりという負のエネルギーに思い当たる。
しかし、本書で感じる発生源は愛である。
一般に愛といえば優しく暖かいものであると思う。
愛ある人、と言われて思い付く人間像は朗らかで、やさしい声、そして人のいい笑みが似合う人物だと思う。
なぜ愛によって暴力が生まれるのか。
それは愛を求めたとき、思いやりや慈しみで返ってきたのではなく、暴力で報いられたからだと本書は語る。
愛を求めた結果が暴力なら、暴力の結果もまた愛なのだと、二つは同じ場所から生まれたのだと捉えてしまうことも想像に難しくない。
コミュニケーションにおいて難しいのは、共通の言語で同じ意味を持ちながら、そのルーツが違う場合である。
例えば私に恋人がいて、私が思う優しく暖かいものである愛を与えようとしても、相手にとっての愛が暴力や否定と繋がっている場合、二人は同じ愛という言葉を使っていても、その距離はものすごく遠い。
本当に会話が出来ないというのは、日本語と英語とかそういう言語の違いではなくて、その言葉の距離によってなのだと私は思う。
ゲイリーは四人兄弟で、殺人を犯したのは彼だけだった。
世間の人は同じ家庭で生まれても、殺人者になったのは彼だけなのだから、それは彼の責任だと思うだろう。
しかしその一方で、残りの三兄弟に対しては血の繋がりの恐怖を抱く。
もちろん、血の系譜によって損なわれてきたのはゲイリーだけではなかった。しかし人数がどうであれ、結果がどうであれ、彼らが損なわれ続け、いつから続いているのかも分からない支払いをし続けていることに変わりはなかった。
「子供のときに何かがあったからといって、それは免罪符にはならない」と一人の判事は言う。
でもそこで夢のロジックにちょっとした破綻が出てくる。というか、少なくとも判事のロジックに。判事たちはゲイリーに三歳のくらいの黒髪の娘がいることを知る。判事たちはこう決定する。その女の子はゲイリーの子供であるから、彼によってあまりにも深く汚染されており、生かしておくわけにはいかない。だからもしゲイリーが死を求めるなら、その子も一緒に死ななくてはならない。ゲイリーはそれを受け入れる。
私たちは生きている限り、一秒だって後には戻れない。
その中で重大な何かを落としたり、皆が当たり前に受け取っていたギフトを貰えなかったことに気付いても後戻りは出来ないのだ。
そしていつか「大人」という立場に強制的に立たされ、責任を担えるだけの経験を持っていようがいまいが責任を担わされるのだ。
大人になれば、子供のときの痛みは強制的に排除される。
しかし子供は子供で、親が支払い切れなかった分の代償を背負わされる。
なんだかあまりに理不尽ではないでしょうか・・・。
下巻の最後では知らず知らずに涙を落ちていたことがありました。
著者のマイケル・ギルモアは末っ子で唯一父から暴力を受けなかった子供でした。彼は一人だけ家族から逃げたと語っています。その中で私は、彼が逃げることができたのは無意識に家族との繋がりを感じられていたからではないかと思いました。
DVでもなんでも「なぜ逃げなかった?」という客観的な視点がありますが、逃げるというのは行動としては簡単でも精神的にはかなり高度なことのように本作を読んで思いました。
無意識で繋がれないから意識的に繋がることを大切にしてしまうのかもしれない。そんなことも思いました。
読みやすい文章なのですが、読みたくないなら読まない方がいいと思う一作。それくらい強烈で強い、一作です。