≪内容≫
カンザス州の片田舎で起きた一家4人惨殺事件。被害者は皆ロープで縛られ、至近距離から散弾銃で射殺されていた。このあまりにも惨い犯行に、著者は5年余りの歳月を費やして綿密な取材を遂行。そして犯人2名が絞首刑に処せられるまでを見届けた。捜査の手法、犯罪者の心理、死刑制度の是非、そして取材者のモラル――。様々な物議をかもした、衝撃のノンフィクション・ノヴェル。
読み終わって、色んな感情が押し寄せるみたいにぼわああああって来た。
私がこの作品を読みたいと思ったのは、ネットで一つの文章を見つけたからです。
その言葉は
おそらく、クラッター一家はその尻拭いをする運命にあったってことなんだろうな
でした。
私は、この言葉にドキっとさせられたのです。
この言葉の意味を理解出来る部分が自分にも潜んでいるように思ったのです。
この事件はすでにクラッター一家が殺されたこと、その犯人も序盤ですでに察しがつくし、犯人たちの育ってきた状況なども最初から小出しで出てくるので、なぜ殺したのか?という興味だけで読み進んでいったわけではありません。
私は単純に犯人の一人であるペリーに対する好奇心が最後まで作用していたように思います。ペリーの過去だけではなく、独房での過ごし方や、友達にあてた手紙、死刑への思いなど。
彼は殺人者で、殺されたクラッター一家は善良な市民で、ペリー達に何の関係もない人達でした。
その四人を殺したペリー。(とディック)
彼は裁かれるべきだし、裁かれました。
それに卑劣な殺人を犯した彼を可哀相なヤツと非難したって別にいいことのようにも思います。
だけど私はペリーに対して、すごく複雑な感情を持ちました。
そしてそれはペリーに対してだけじゃないです。
ペリーのように奪われてきた人達への感情です。
同じ家で生まれた。一方は裏口から、もう一方は表玄関から出た。
この作品を読んで思い出した本があります。
それがこちら。
ろくな書評になっていないので少し話させていただきますと、この作品は宮崎勤の話が出てきます。
で、彼ってねずみ人間が出てきて~とかいう話をしていたじゃないですか。
最近テレビで放送していたようですが。その時の宮崎勤の深層心理を中村さんなりに解読?説明した内容が描かれているんですが、それが本書のペリーと少し似ていたんですよね。
そのときでしたね。自分が自分の外にいるみたいに感じたのは。何かいかれた映画に出てる自分を眺めてるみたいだったな。それで気分が悪くなりましたよ。ほんとにうんざりして。ディックにも、金持ちの金庫がどうのこうのっていうあいつのおしゃべりにも、子どもの一ドル銀貨をくすねようと這いずりまわってる自分にも。
(冷血)
ペリーはクラッター一家なんて全然知らなかったし、殺す寸前まで殺す気なんてないと思っていたと書かれています。
クラッター一家に狙いを定めたのは相方のディックだったし、執拗にクラッター家から出ようとしなかったのも彼でした。
だけど、殺したのはペリーでした。
「同じ家で生まれた。一方は裏口から、もう一方は表玄関から出た。」は作者のカポーティの言葉です。
私はこの言葉が「私の消滅」と「冷血」にも共通するように感じました。
そして、「NARUTO」にも。
「私の消滅」も「NARUTO」もフィクションであり希望に向かう。
特に「NARUTO」は夢と希望が詰まった少年ジャンプでの連載ですし、バッドエンドはあり得ないに違いないですが、もし、ナルトにあんな潜在能力がなかったら本当に木の葉の里も、里のみんなも愛せたのかな?って思うのです。
私はナルトの終わりには納得してるし、ナルトが大好きなので、水を差したりイチャモンつけたいわけではないです。
ただ、もしパラレルワールドがあって、ナルトにあんな血脈がなかったとするならば。
どんなに努力しても、他人にやさしくしても、忍者の才能がからっきしなかった世界だったら、ナルトはどうなってただろう?
親もいなくて、里の皆からいじめられ続ける人生。
さらに夢のために努力しても報われず、同年代の当たり前に家族がいるクラスメイト達はどんどん昇級していったとしたら。
サスケみたいに、一族を殺された憎しみを大元のでっかい組織にぶつけられる能力があるならまだ幸せみたいに思えませんか?
無差別に誰かを狙わなくても済むような、確実に事件の当事者に矢を放つってことは当たり前に見えるけど、当たり前に出来る事じゃないのだと思う。
大きな時代の波に何かを損なわれても、それを乗り越えられる潜在能力があったら、生まれた家が同じでも玄関から出ていくことができる。
現実は、どれだけ努力しても認められずに裏口しか許されなかった人間がいる。
私達は希望や光ばかり見る。
スターばっかり追いかける。
だってそれが楽だから。そういうものは何かを与えてくれるし、自分たちはそれを受け取るだけでいい。
ナルトは英雄だよ!努力して火影になった立派なやつだ!仲間思いの熱いイイヤツだ!みんなも努力しよう!人から蔑まれてもやさしい気持ちを忘れずに!そうすればきっと認められるんだ!愛される、いつか分かってくれるんだ!
じゃあもしナルトにそんな力がなかったら?
ただのイタズラ小僧で、何の取り柄もない、ただ元気で明るいヘボ忍者だったら?ネジの天才的な攻撃にそのまんま負けて、ザブザとの対戦でサスケが死んで、我愛羅を救うまでの道のりで、たどり着く前にヘバってたら?
それでもナルトは自分にもてる限りの全力で常に戦ってる。
別に楽しているわけでもないし、仲間より自分を大切にしてるわけじゃない。
それでも私達はそんなナルトなら見なかったことにするんじゃないかと思う。
誰だって、情けない人間なんて見たくない。
そういう人間を見たら得られるものは何もないし、ともすれば見た側が何かを与えなければならなくなるかもしれないから。
私達は玄関から出てきた人間に対しては当たり前に認めるが、もし裏口から出てきた人間を目撃しても見なかったことにするんじゃないかと思う。
もしくは好奇の目で噂をするか、通報するか、距離を取るか。
世の中の人たちだってほとんどそうじゃないのかなって思います。
そうやって好奇の目で見たり、蔑んだり、見下したりしている人間だって、裏口から出てた可能性は絶対にあると思う。
たまたま両親が愛情深い人達だったとか、たまたま運動能力(もしくは音楽なり特別な才能)に優れていて、その能力を伸ばしてくれるような人に出会ったとか、たまたま役割を得られるような場所(地域)に生まれたとか。
そういった偶然であり、ほぼ運で生きてると思うんです。
自分で手に入れたものではない、与えられたものを誇る彼を、醜い存在なのだと思った。
(掏摸/中村文則)
普通に生きていて、まあそもそも普通って言うのか違うか。
とりあえず生きていく中で、生まれ育った家とか親とか兄弟とか顔とかスタイルとか学歴とか声とか、そういったものを誇っているつもりはないとしても、それが当たり前であるとして生きていると思うんですね。
それが間違っているとかおかしいとか言いたいんじゃないんですが、それって自分で手に入れたものではないんですよね。確実に。
運も実力の内、というのは本当だと思うし、生まれ持ったものを生かすことで成功するのも実力だと思う。
だけどその実力ってものや生まれ持ったものを開花させたのは、恐らく自分じゃないんです。
本人は本人の努力や情熱だと思うかもしれないけど、それの八割くらいは周りの環境だと言いきっても嘘じゃないと私は思う。
もし、ナルトの面倒を三代目火影が注意深く見ていなかったら?イルカ先生がナルトをただの落ちこぼれ兼両親の敵としか見れないような人間だったら?カカシ先生が野菜を届けたりちょいちょい気にかけたりしてなかったら?
ナルトが例え英雄の子供であっても、火影にはなれていなかったと私は思う。
人は自分一人の強い信念で前を向けるほど強くないと思ってます。
そりゃあ信念も情熱も誰かと分かち合ったり分け合うことは出来ないから、自分だけのものだけど、それを支援してくれたり見守ってくれる他者がいて、人は前を向けるんだと思うんですよ。
汚れた顔をしているのは恥ではないー汚れたままにしておくことが恥なのです。
(冷血)
ペリーの姉からの手紙の一文です。
言っている意味はよく分かります。
自分がどんな環境で生まれようが、どんな境遇で育ってこようが、どんな人生を送ってこようが、それを改善しようと努力しないことが恥なのだと。
自分でどうにかしようとせず、汚れた顔で生んだ親のせいにするのはおかしいと。
ペリーの姉ですから、同じ家に生まれています。
しかし、ペリーは殺人犯となり、姉は幸せな家庭を築きました。
特別に姉が優遇されていたわけではありません。寧ろ、姉からすればペリーは父の愛情を一身に受けたと思っています。
人から見れば愛されてる。
だけど自分からすれば搾取されている。
汚れた顔を拭いてくれる誰か、何かを自分で掴めなかった人間に流れるのは冷血なのだろうか?
それとも自分で綺麗にするだけの力がなければ甘えなのだろうか?
殺されたクラッター一家はほんとうに悲しいと思う。
彼らに何の罪もなかった。
なぜペリーは殺す気なんてなかったのに、殺したのだろうか?
長くなったので、それは次にしたいと思います。
私はヒナタだったら、ナルトが一流の忍者にならなくても、ナルトの持っている真っ直ぐな信念だけで彼を愛し続けてくれるように思います。
ナルトにおける無償の愛の持ち主はイルカ先生とヒナタだと私は思う。