これはけっこう怖いです。
川端康成はまだ、恋愛とか品のある男女が出てきてたのでそこまでおどろおどろしくはなかったのですが、吉田さんの世界観はかなり緊迫してます。
↑この書評のときも考えてたんですけど、吉田さんの世界観も現実世界と黄泉の国への行き来、もしくは顕在意識と潜在意識の混濁、そういった読んでて混乱で気持ち悪くなってくるようなお話です。
ちなみにこういった内容をわりかしポップに書いてるのが村上春樹だと個人的に思います。
まあ村上さんの作品は主人公は現実世界にいながら周りの人間が混濁していき、それに巻き込まれていく・・・という感じですが、吉田さんの作品は主人公が混濁していくので、どこからが現実でどこからが記憶(もしくは、無意識)なのか主人公はもちろん読み手にも掴めず、もはや登場人物は家でうなされてるだけ・・・という夢オチとさえ考えられるほどのカオスです。
なのでこういったカオスを
・現代風オシャレに書くのが村上春樹
・美しく幽玄に書くのが川端康成
・おどろおどろしく物騒な世界で表現するのが吉田知子
と個人的に思っております。
好きな人は相当好きになると思う。
どの話もそこはかとなく不気味。その始終漂うゾクゾク感がたまらないのであった・・・←唐突な気持ち悪い暴露
お供え
画像は映画「悪人」から。
本作は内容説明にあるように「家の前に供えられる花、庭に投げ込まれるお金。知らぬ間に神様に祀り上げられてしまった未亡人」の話です。
なにこれ怖い。設定から不気味。
主人公はこんな人
あなたのような方は、一見おだやかで平凡そうに見えるが実は稀に見るほど強い人なのですよ。家族も仕事も友達も趣味もなく、外出も旅行も嫌い。それにもかかわらず毎日少しも退屈せずに満足して暮らしておられる。
ちなみに家は亡き夫の要望で外から見えない作りになっている。この作品、一回目読んだ時は「物騒!!」って感じでディティールまで見えなかったんですが、三回目の時には、これはやっぱり人間が作ったんだな、と思いました。
人が人であるために
あんたは人づきあいが悪いと母が言うとおりだった。うちへ来てくれる人にはできる限りのもてなしをするけれども積極的に他人とつきあうという気にはなれない。
と描かれているが、確かに彼女は「うちへ来てくれる人にはできる限りのもてなし」をしているつもりかもしれないが、心の内は辛辣である。
しかもその辛辣さは訪問者だけでなく母や志村のばあ様にも向けられる。
彼女がまるで供えもののように置かれる花について真剣に耳を傾けてくれた母親と志村のばあ様に対しての心の声はこうである。
母は自分からおはらいと言ったくせに、それについて何の経験も知識もなかったので、私はとりあえず志村のばあさまに頼んでおいた。しかし、それきり忘れたのか志村のばあさまからは何も言ってこない。私のほうも催促するほどの気もなかった。
実は志村のばあさまは脳の血管が切れて入院していた。そのことを電話口で母から聞かされても彼女は「おはらい」のことで頭がいっぱいで、ばあさまの容態や面倒を見ている母のことを気遣う言葉も心もなく、自分が続くお供えについて訴えても母がまともに話を聞いてくれないとしか思っていない。
誰かの悩みに対して経験と知識を持って答えるのは至難の業である。
限りある人生の中で同じような経験をした人の方が少ないだろうし、知識だって自分に必要なもの以外で持ち合わせているものは多くはないでしょう。
もしも、人の悩みに対して完璧な答えが出せるならそれは神様なんじゃないでしょうか。
人間ではない何か
小さな子供が私のまんまえで私の顔めがけて石を投げる。ふりむくと私の後にも横にも人間の壁ができていた。私の周囲だけが丸くあいている。 手を合わせている人、石を投げる人、私に触ろうとする人。
彼女の家に向かってお賽銭が投げられたりするんですが、彼女自身にもお金がぶつけられます。
しかし、彼女はお金だけでなく石も投げられる。血が流れ、転びかける。
純粋に人づてに聞いて彼女を神のような存在と崇め手を合わす人もいれば、石を顔めがけて投げる子供もいる。もしかしたらお寺や神社ではこういう人たちの姿が日常茶飯事なのかもしれませんね。
賽銭を盗もうとする人もいれば熱心に拝む人もいる。それら全てを神様は見ているし、それら全て人間なのです。
彼女は人から遠ざかり、その結果人々からも遠い存在となった。
幸せとか欲とか五感とかそういったものが全て消えた世界。
そこはしがらみも執着もなく清潔なのかもしれないですが、「死んでいる」という表現がしっくりくる場所。そんな場所で少しも退屈せずに満足して暮らしている女がいる・・・となればそこに霊性が加えられてしまうのも無理ないのかもしれません。