《内容》
夫の俊也から一方的な別れを告げられた由希子は、離婚後、娘の幸、息子の蒼空とアパートでの新生活を始める。学歴や職歴もない由希子は、医療資格受験の勉強をしながら長時間のパートをし、2児を養うことになる。しかし、経済的なこともあり、友人からの誘いで夜の仕事を始めるが、帰宅が深夜になる事が増え、家事や育児が疎かになっていく。そして、育児からの逃避や寂しさを埋める為に通い始めたホストクラブに、次第に嵌っていく。ある日、由希子は子供たちに食事を作って家を出る。交際を始めたばかりの男性のもとへ、2度と帰らないつもりで―。
実際に2010年7月30日に大阪で起きた事件を元に作成された映画。
小説では、母親が追い詰められていくことや、母親を取り巻く環境、母親のパーソナリティについて書かれていましたが、この映画は子供目線。
子供は静かに溺れる、というように静かに息を引き取っていきました。
生きることは逃げ続けること
「あんたは何度も勝つことができる。しかし負けるのはたった一度だ。あんたが一度負けたらすべては終る。そしてあんたはいつか必ず負ける。それでおしまいさ。いいかい、俺はそれらをずっとずっと待っているんだ。」
(「踊る小人」(螢・納屋を焼く・その他短編/村上春樹)より )
この引用文の「俺はそれらをずっとずっと待っているんだ。」の”俺”は、主人公にとって世間だったり自分の親だったり、夫だったり、義父母だったり神様か悪魔だったりしたんじゃないかと思う。
自分の幼少期も恵まれたものではなく、長女というだけでいなくなった母親の代わりに妹と弟を育てた。そう、子供時代の彼女は勝ったのだ。
だけど、大人になって負けてしまった。
なぜか?
逃げなかったからだ。
両親からの援助もなく、夫からの生活費もなく、特別な資格を持つわけでもない彼女は二人の子供から逃げなかった。捨てなかった。子供の時は逃げる術も持たないし知ることもなかった彼女も大人になるうちに外の世界を知る。
それに子供でいるうちは許されても、大人の世界は情けないことに厳しい世界だ。それを”自己責任”と言う。彼女が自分の能力を把握できず、子供たちを引き取ったこと、養育費の請求をしなかったこと、そういった彼女の決定に対して、周りは自己責任、自業自得と評価するだろう。そして自分で決めたのだから自分で何とかしろと匙を投げるのだ。
でも、そういうことをいう大人も必死に逃げ続けてる。転んじゃった人の手を引けるほど余裕のない人が多いことが問題なのだ。
パッケージでマヨネーズを飲んでいる幸ちゃんは、ガムテ張りされて動かないドアをガタガタと上下させるが、その音は頼りない。缶詰に包丁を突き立ててもかすかな傷ができるだけ。
そのうち弟の泣き声も聞こえなくなり、この家は静かに腐っていく。
大人が子供を殴る音、大きな怒鳴り声、怒りに任せた生活音、そのすべてが大人の力で出せる音量で、小さな子供が立てる音はとても静かだ。特に大人に怯え、元気のない子供は。
アマプラ公開中↓
同じくこの事件をフィクションで書いたお話↓
なんで夫から養育費もらわなかったとか、夫も妻と子供がどうやって生きていくか想像できなかったのかとか、現実的なことを考えればいくつもあるのだけど、大事なのはその二つの決定を間違えても生きていけるルートを作ることなんだと思う。1度負けたらすべて終わることは大前提として、それを回避するルートがあったらな、と思う。