深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

希望の国のエクソダス/村上龍~守られた温室で人はゆっくりと死んでいく~

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 ≪内容≫

2002年経済の大停滞が続く日本で、一斉に不登校を始めた中学生がネットビジネスを開始、円圏を巡るアジア通貨危機では、情報戦略を酷使して意外な結末をもたらす。壮大な規模で現代日本の絶望と希望を描く。

 

例に漏れずエキサイティングなお話です。

この小説を読んで一番感じたのが「何が正しいかは自分にしか見つけられない」ということです。

 

日本は、歴史的に他国からの侵略がなかったためのほほーんと生きてきました。

だから他国のようにハイスピードで臨機応変に動けないんじゃないか?と思っています。何かが起きてる!大変だ!と思っても、今まで何とかなってきたので、「ま、何とかなるべ」っていう考えが大半だと思うんです。

 

そんな中動き出したのは中学生たち。

彼らはなぜ動けたのか?

 

わからない方が正常

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誰にもわからないし、わからないというほうがたぶん正常なんです。関口さんは反乱を起こしている中学生のことがわからないとおっしゃいました。わかるわけがないんです。中学生だけではなく、他人のことはわからない。もちろん自分のことさえわからないし、未来のこともわからない。

 

 中学生が一斉に不登校を始めました。

そんな状況がほんとうに起きたら、テレビでは尾木ママとか教育者が出て来て「なぜそうなったのか?」「彼らは何に不満を持っているのか?」「どうやったら彼らを納得させられるか?」を討論するだろうと思います。

 

社会で働く大人たちは「若い奴は何考えてんだかわからない」と言うだろうし、同い年やその下の子供たちは親の意見に左右されるか、迷うと思います。

高校生はすでに社会に片足を突っ込んでいるので、恐らく気持ちは分かっても大胆に行動することはないでしょう。

 

私は、こういうニュースが本当にあったらまず「なぜそうなったのか?」と思うと思います。そして、「分かりたい」とも思うでしょう。

他人の心なんて見えないし、本当に分かって欲しいことほど分かり合えないものだとも思っています。でも、それでも分かりたい、彼らが訴えていることの意味を理解したいと思います。彼らが理解を求めていなくても。

 

もし集団不登校を起こしたのが高校生なら問題にはならない。義務教育はすでに終了しているから国の責任ではないし、高校生はアルバイトも出来る、中卒で働くことも出来る。

社会は中学生を無力な人間として見ているから慌てるのです。

「彼らはまだ子供なのに何ができるんだ?」と。

 

私たちは中学生を同じ人間として見ていない。

働くことの出来ない守るべきものとして見てる。

守られる存在でいる限り従うことしか許されていないから、彼らは中学生をやめたのです。

 

本当に子供のこと、まだ働けない15歳までの人間のことを理解しようとするならば、彼らのことだって分からないんだと自覚することじゃないかと思う。

 

「大人になれば分かるよ」「君がまだ働いていないからだよ」「社会には色んな決まりやルールがあるんだよ」って言葉は、彼らの疑問の答えにはならない。

 

コミュニケーションとは分からないことは前提に常にある。

それは年齢や立場や国籍も関係ない。

 

一方的では成り立たないコミュニケーションを

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目の前の少年たちはつるんとした感じがする。コミュニケーションがうまくできないわけではないし、想像力がないわけでもないのだが、自分の言動が相手に何らかの影響を与えるという意識が彼らには希薄なのではないだろうか。

彼らは圧倒的な量の情報を浴びながら育った。

情報は一方的に押し寄せてきてこちらからレスポンスを返すことはできない。

(中略)

自分たちがレスポンスを返せないわけだから、相手からのレスポンスが戻ってくるという体験もしていないということになる。言い換えれば、それは他者や外界の反応を期待できなかったということだ。最初から他者というのは反応しない存在なのだ。

 

 SNSはとても便利だと思う。

嫌なら返事をしなければいい。それだけ。相手が怒って何度も連続で送ってこようが無視し放題です。

これは、対人間には難しい。

兄弟や親とのケンカなら無視し続けることも、おい!と掴みかかることも出来るけど、対面で話し合うとき、無視するというのは難しい。

 

私は、妄想の中では反論出来るけど実際は言えないことが多いです。

言おうとすると、言いたい気持ちより言った後に相手がどう反論してくるか、逆上して手を挙げてきたらどうしようとか、傷付けたらどうしようとか、相手の反応が絶対にあるんです。

他者が反応しない存在という考えが全くない。

 

なぜ中学生が動けたのかというのはここにあると思う。

変えなきゃ!と思っても変化によって傷付く人がいると思うと一歩はとてつもなく大きい。

中学生たちは「なぜ昔はよかったというならそのままにしておかなかったのか?」と問います。その答えを出せる大人はいません。このシーンは国会です。日本を代表する大人達が答えられないのです。

 

私が本書を読んで気付かされたのは、ここの部分が一番大きいです。

中学生が問う大人たちは国会議員や官僚や教師だけじゃありません。だけど、私は「官僚たちが答えられないなら無理だよ」「日本のトップのくせになんか気の利いたこと言ってよ!」とものっすごく他人任せに思ったのです。

この問題は日本の問題です。

だけど、解決するのは総理大臣とか官僚とかの役目で私は結果を待っているだけです。

 

これは今までの色んな一瞬で消え去っていった問題に対してもそうです。

築地移転の問題もニュースに上がれば「何やってんだ!」と不快に思い、ニュースに出なければ気にも止めない。

 

なぜか。

国民の声なんか届くはずがないと思っているから。

 

連日色んなニュースが流れて、官僚の天下り問題とか森友学園がどうとか、保育園落ちた死ねとかあるけど、それはあるだけで。

レスポンスを求められているわけじゃない。

ニュースは「こんなことがあったよ!以上!」って感じで一方的です。

 

だからこそ、一方的では成り立たないコミュニケーションが必要なのだと思います。

それは対面で人と話すこと。

私は限られた人としか話さない・・・というか、外に出るとか他人の為に時間を作るのが面倒だと思っていたので、話せると思った人とだけ会って話していました。

いちいち嘘のコミュニケーションをする時間ももったいないと思っていました。

だけど、最近もしかして人と対面で話すこと自体にものすごく価値があるんじゃないかと思えてきたのです。

これは特に何かがあったわけではないし、そのことで何が素晴らしいとかどんな価値があるとか、そういうことは分かったわけではないけど、本当に当たり前なことだけど「人はそれぞれ違うんだ」ってことや人の優しさやぬくもりを「なんか今日ちょっと楽しかったな・・・」って噛み締めてる気がしたんです。

 

今の時代、調べればなんだってグーグル先生が教えてくれます。だけどそれは一方的なものでしかないです。

一緒に「どうなんだろう?」と考えてくれるのは人間しかいません。

これは?こっちは?そっちは?と一緒に新しい場所を見つけてくれるのは人間しかいないのです。

 

私たちは人間です。

情報は人間じゃない。

社会を変えるのは情報じゃない、人間です。

 

 

希望は無駄なことを捨てた先にあるのか

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関口はふと聞こえてきた「家路」に胸が詰まり感傷に襲われる。

このメロディは小学だか中学だかの下校時のメロディだった。小学校のことはほとんど覚えていないし中学でもろくな思い出がないのに。

 

そんなことはどうでもよくて、たぶん、何かがこの曲とともにおれに刻まれているということが問題なのだ。きっとそれは人生にどうしても必要なものではない。どちらかといえばどうしようもなく無駄なものだと思う。

(中略)

おれは悲しい気分になっていた。

何か無駄な繰り返しが若い頃に必要だとか、そういう風には決して思わない。安心できるものに囲まれて暮らすほうが平凡だけど幸福だとも思わない。

 

ただ確かなことがあるような気がした。

それは、無駄なことの繰り返しはおれたちを安心させるということで、そのことが妙に悲しかったのだ。

 

 とても人間らしい部分だと思いました。

人間は機械じゃない。だからどんなに効率がいい人生の方が最短でお金持ちになれると分かっても、その為に何もかもを捨ててその道を進むことはできない。

 

小学校も中学も高校も無駄っちゃ無駄だったように思う。

無駄じゃなかったっていう理由を探せばそれなりに見つかるけど無駄とも言える。

だけど今でも今じゃ一つも役に立っていない吹奏楽部だったときの私がいるから、「あのときみんなで怒られたなぁ」とか「あんなに怒られても頑張ったんだから大丈夫!」と前に進むことが出来ると思っています。

 

あんなにキレられたのに演奏者になるでもなく、趣味にするでもなく、表面的には何にも役に立っていない。

でも人を構成しているものの半分はそういう「あの頃の私」なんじゃないかと思う。それでもって、「あの頃」っていうのは繰り返しが無ければ簡単に記憶から消されてしまう気がする。

私が覚えているのは、授業でもクラスメイトとのおしゃべりでも、放課後の遊びでもなくって、ほとんど毎日あった部活動や委員会活動です。

 

何かに触発されて思い出すことはたくさんあるけど、自発的に思い出すのは無駄に繰り返して無駄に怒ったり無駄に泣いた日々のこと。

 

私はこの中学生たちの行いがハッピーエンドに繋がるとは思いません。

なぜだろう?と考えてみるけど、それはよく分かりません。

ただ一つ心当たりがあるのは、私が教師や大人の理不尽に感謝している部分があるからです。

無意味に押さえつけられてた時間が今の私を構成していて、私は今の私が結構好きなのです。

無駄なことばかりだったけど、じゃあ自分で見つけてみろと手放されたら私には何もなかった。いざそうなれば何かを見つけられたかもしれないけど、押さえ付けることで甘えを認めてくれた大人たちに私は思いっきり甘えていたと思う。

 

人に甘えるということが、私の中で価値が大きいのです。

甘えさせてくれる人がいて甘えたことがあると、甘えたい人を甘やかすことが出来るからです。

彼らは誰にも甘えません。それはとても強くみえました。

だけど、私は甘えない人間に対してとてつもなく孤独を見てしまうのです。

何か根拠があるわけでもないのですが、人はみんな一人ぼっちだから根本的に誰かを求め誰かに求められたいという感情があると思ってるので、甘えないということは他人を求めていないように感じてしまうからだと思っています。

 

もちろん、人手がいるとか、こういう技術をもった人間が必要とか、そういう求め方もあって、そういう求め方だけが中学生たちにある気がします。

 

彼らが日本を開拓していって世界と戦えるようになったとして、それは希望なのかな?って思います。

 

私はギリシャ人の適当さが大好きです。例え国が破綻になっても「悩んだってしょーがないよねー」とビーチで日光浴する彼らが大好きです。

ドイツに「今回も頼むよぉ~」とか言って助けてもらいながら、自分たちがあくせく働くことはなさそうです。

日光浴なんか無駄じゃないですか。シミは出来るし、紫外線はガンの元だし、そもそもビーチに行かなくてもいいし。

彼らにとっての生きることは楽しいことなんですよ、たぶん。

それってすごく希望に満ちている気がしませんか?

 

希望ってなんでしょう?

私も彼ら(中学生)と同じく欲望は薄いです。豪華な家も車もセンスいい家具もなんにもいらない。だけど、誰かを思いっきり愛して死にたいっていう欲望はあります。

これがたぶん私の希望。

生きていれば、自分の魂が揺さぶられるような誰かに出会えるかもしれないっていう希望。

 

中学生たちは希望を求めたけど、その希望は果たして「希望」なのか?

 希望はどこから生まれるのか。