深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

壁とともに生きる わたしと「安部公房」/ヤマザキマリ〜何者かであろうとする虚しさ〜

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《内容》

不自由で理不尽な社会で、心涼やかに生きるには?

自由に生きれば欠乏し、安定すれば窮屈だ。どうしようもなく希望や理想を持っては、様々な”壁”に阻まれる――。そんな私たち人間のジレンマを乗り越えるヒントは、戦後日本のカオスを生きた作家・安部公房にある!「マンガ家・ヤマザキマリ」に深い影響を与え、先の見えない現代にこそその先見性が煌めく作家の「観察の思考」を、著者の視点と体験から生き生きと描き出す!(NHKEテレ「100分de名著」2022年6月放送予定「安部公房 砂の女」に講師出演決定)

 

最近やっと「砂の女」を読みました。

一緒に「箱男」も買ったんですが、こちらはまだ未読。

 

有名すぎる「砂の女」ですが、一読だけではなんとなく空うちな感覚。他の人の意見が聞きたくて読んでみたのですが、これが良かった!

 

この本は「砂の女」というより「安部公房」のお話で、安部公房の生き様を解説してくれるヤマザキマリさんは、本当に安部公房が好きで、好きってこういうことなんだなぁ、と思いました。

 

とにかくこの本を読むと安部公房作品をもっともっと読みたくなる!

 

僕らは壁の外側に出ることはできない

 

 コロナという壁によって、私たちは自由に旅行もできなくなり、商売も成り立たず、いろんなことができなくなったし、不条理な思いと真正面から向き合わされることになった。だが、そもそも人間という生物として生きる限り、死ぬまで自分の命をメンテナンスしていかなければならないのだから、最初から最後まで壁はある。それどころか我々人間は、自由という砂漠の中で、蛇や砂嵐から守ってくれる壁を自主的に求めてすらいる。となると、そのすり鉢の中で、私たちはどんな知恵を使い、どんな想像力を駆使して、命に満足を覚えることができるのか、ということを考えていかなければならない。

 

 安部公房の作品は「壁文学」と言われている。砂の女も砂の壁が主人公を閉じ込めることから始まる。主人公はその壁を乗り越えようと試行錯誤するが、最終的には壁の中に留まることを選択する。

  

 砂は主人公の皮膚の隙間や食べ物にも侵入し、決して快適とはいえない空間に主人公を閉じ込める。主人公もその不快さから「ここから出て数分でもいいから外の空気を吸いたい」「鳥はいいな、自由で・・・」と壁の外に自由や快適さを夢見る。

 

 しかし外に出ても鳥にはなれないし、砂嵐は容赦なく主人公に突き刺さる。

 

 今いる場所から出ることは決して無駄なことではないが、その先にもまた壁があり、その壁の近くに立ち寄るまでは壁の中で防護壁のない中を歩かなければならない。

 

 幸せになりたい、OOがしたい、こんな風になりたい、そういう欲望がある内は我愛羅のオートガードのように自然と壁が生まれる仕組みなのだ。

 

 なぜならその欲望と同時に何か”結果”を残さなければならない気持ちに駆られるからだ。それは自己満足から自己承認欲求へと簡単に形を変える。

 

 安部公房の小説では、そんなふうに何かにしがみついて生きようとする人物が、最終的にはその虚しさと向き合うことになる顛末が描かれることが多い。アイデンティティにこだわる。自由にこだわる。希望を持ちたがる。でもその結果、どうなるかを容赦なく教えてくれる。そんな文学である。

 

 私はまだ砂の女と棒になった男、しか読んでいないので、これからたくさん読めるぞ!と思うとウキウキです。

 

 にしてもヤマザキマリさんの文章が巧みでスイスイ読めてしまったことに驚きました。テルマエロマエの作者さんということで、この漫画読んでみたいなぁ、と思いました。

 この作品もご自身のお風呂に入りたいという実体験から生まれた気持ちが制作の元となったそう。

 

 

 そんなアナーキーなたくましさと、いっそ馬賊になってやろうとか、風呂場でサイダーを作って売るようなサバイバル能力も、私にとって安部公房という人物の魅力である。私は生きるスタイルに囚われない傍若無人で気骨のある人に強いシンパシーを覚える。生き延びるタフさとは、こういうことなのだろう。その体験があるから、彼が生み出すのはいわば質実剛健で、細部まで満遍なく肉付けされた文学なのだと思う。

 

 安部公房って医学部卒だから勝手にエリートの人だと思ってたんですが、すごく人間味のある人らしく、安部公房の自筆年譜も読んでみたいなと思いました。