深夜図書

不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

ネンレイズム/開かれた食器棚/山崎ナオコーラ~年齢に価値や信頼を置くのは貧しい~

≪内容≫

おばあさんっぽくなりたい18歳の私、今を生きたい紫さん、ゆっくり歳をとりたい加藤くんーー高3の特別な冬を描く著者最高傑作!

 

作家さんてやっぱ視点がすごいな、と思う。

若くありたい!と思うときは多くても、おばあちゃんになりたい!と思ったときなんて多分私はない。

 

あっても将来こんなおばあちゃんになりたいな、とか、総入れ歯にはなりたくないな、とか、そういう考えしか持ったことがない。

 

年齢ってなんだろう?

最近ようやく呪縛が薄まってきた気がする。

「OO歳までにやるべき20のこと」みたいな本が流行るんだから、年齢というものに絶対な価値や信頼を置いている人が多いんだろうな。

 

そして、それって貧しい気もするのでした。

 

 

ネンレイズム

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ひとりひとりの違いよりも、男と女の違いや、世代の違いの方が大きいのだろうか。

いや、そんなことはないだろう、個人の違いの方が遥かに大きいはずだ、と最近、新聞を読みながら考えるようになりました。

属するカテゴリーの違いより、個人の差の方が格段に大きいのだから、カテゴライズで仲良くなれそうかなれなさそうか判断するのは辞めようかな、と。

同い年だからタメ語っていう概念に違和感を持つ主人公は誰に対しても敬語で話す。それは壁を作っているとか、仲良くなりたくないからではなくて、少しずつ仲良くなっていきたいから敬語から始める、という主人公。

 

私もつい最近です。

年齢やカテゴリーを重視するのが正しいのか、と疑問を持つようになったのは。

同い年ならタメ語、先輩なら敬語、後輩ならタメ語・・・って生きてきました。

 

同い年に敬語使ったら壁作ってるみたいだし、後輩に敬語だと取っ付きにくい先輩みたいだし・・・と思ってそうしてきました。男と女の違いや、世代の違いに関しても、「やっぱり男女は違うなぁ」とか「世代が違うから考え方が違うなぁ」みたいに思うことがあって、個人ではなくてカテゴライズされた中でしか考えられない頭持ちでした。

 

何となく、そういう考え方に違和感は持っていてもどこを疑問にすればいいのか分からず、腑に落ちないまま生きていました。

 

だからこの小説に出会ったとき、「これなんだ!!!」と驚愕したし、今までも自分の思考は自分で考えているようで、誰かが作ったカテゴリーの中で拾ってきたにすぎないのかもしれない・・・と思いました。

 

そう考えると、大人も子供も、男も女も、先輩と後輩も、個人じゃなくて役職のように思えてきました。

大人だから敬う、先輩だから慕う、男だからよく食べる。

というのは無理がある。

敬えない大人はめーーーーーーーーちゃいるし、大嫌いな先輩もめーーーーーーーーーちゃいるし、小食な男性もいる。

 

だから結局は個人を見て判断してるのに、とっかかりは常にカテゴリーを求めちゃう。

 

もちろん年配の方や先輩や上司に対して「対個人だから敬語使いませんよ、対等に接しますよ」というのは違うと思います。

それはマナーというか、常識?というか。

 

ただ何か意見交換したり、食い違ったときに年齢や世代や性別を落ちに使うんじゃなくて、そういうときにこそ"個人"として、相手がどうしてそう思ったのか、っていう風に考えていきたいなぁと思いました。

 

そうしたら人に興味も持てるんじゃないか・・・と。

 

 

似てても違う

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私と雁はお互いに、相手と自分が違うことを知っています。肌の色が似ていたり、年齢が同じだったり、体の形が近かったりしても、違うのです。そのことを尊重しなければなりません。

でも少し寂しくも感じます。

 うん。寂しいけど、どんなに似ていても違うのですよね・・・。

同じ女子高生だからって一緒じゃないし、同じアーティストが好きでも、同じブランドの服を着てても違う。

 

だから、人に合わせても寂しいだけです。

 

寧ろ、違うことを受け入れて開き直っちゃった方が楽です。合わせていったら、どこまでも違うことを知って、どこまでも一緒になれないことを突きつけられるだけです・・・。

最悪「私と一緒だと思ってたのに、違うんだ」みたいな言葉を突きつけられる。

 

ただし言ってる方は相手が無理してるなんて気付かないから何てことない一言ってパターンが多いんですが。

 

日本人同士だから分かりあえる。外人だから意味分からない。女同士だから分かることがあるの!男女の友情はあり得ない。

っていうのは、あくまで個人的な意見であって絶対じゃない。

どんなに大多数の人と似ていても、誰とも違うから。

 

そう思うと、やっぱり少しだけ寂しい。

でも違うことが当たり前だから、はみ出ることが出来る。

 

みんな違って、みんないい。

 

 

 

開かれた食器棚

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「ゆっくり、ゆっくりやればいいのよ。成功や達成を求めるより、過程で幸せにならなくっちゃ 」

主人公の鮎美の娘・菫は障害を持っている。

そのことに対してどこか必死で生きていた。

人にバカにされないように、迷惑をかけないように・・・って思っていたら、自分のやりたいことを断る理由にも菫を使っていた。

 

だけど親友の園子は菫をちゃんと見ていたし、信じていた。

「コーヒーカップ持って来て」というと、菫はちゃんとコーヒーカップを指差したのだ。

どうしてこれまでは、菫に何かを頼もうなんて思わなかったのだろうか。なぜ、こちら側がやってあげることばかり考えていたのだろう。 

 この第三者の存在によって、自分の子供を見つめ直すシーンはこの作品を思い出します。

 

生きていると、成功や達成の先に幸せがあると勘違いしてしまう。

だけど、いつだって苦しいときや頑張っているときの方が楽しかったり充実していたりするものです。

そのときに、「あー苦しい!あー辛い!」って感じる中にもちょっとだけ幸せが入ってる。

その幸せに気付きたいな。

 

そう考えると成功や達成が遠くてもいいや、って思える。

遠い分、たくさん幸せを感じる機会があるし、楽しんで続けられるからきっと成功するはずだーって楽観的になる。

 

こういう考えはガンガン突き進んで行きたい人にとっては頼りなく見えるかもしれない。

でもウサギと亀の勝負を考えると、亀は成功しています。

亀にとっての成功は、ウサギに勝つことではなくて完走することだったと私は思っています。

 

対ウサギじゃなくて対自分だったのです。

だからどんなに遠回りしても、続けること、諦めないことが大切だと思うのです。

そして、その為に幸せをお預けにするんじゃなくて、その道その道に咲いてる花に気付きながら進んでいきたいなぁって思いました。

 

 

ハワイアンカフェの従業員は皆ハワイに行ったことがない。

「これハワイっぽくない?」というそれぞれのハワイをカフェに持ちこむ。

 本物のハワイじゃなくても、それぞれが思うハワイで造り上げたハワイなら、それは間違いなくハワイだと思う。