深夜図書

不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

強く生きる言葉/岡本太郎~柳のようにしなやかに生きていきたい。~

≪内容≫

岡本太郎が普段の生活の中で動きまわりながら、ふっと洩らす言葉。その中から彼の独特の哲学、人生論というべきものを集める。強烈な強さと優しさで、「生きる力」と「夢をかなえる勇気」を与えるメッセージの数々。

 

 

岡本太郎好きです。

読むとどんなときも素直に前向きになれる。

 

人と話すより、岡本太郎の言葉を読む方が生きる気力が沸く。

 

 

 

なんでもかんでも欲しがる悪

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私は欲しがりです。

物欲はほとんどないに等しいのですが、知識良くなり、感性なり、そういうものはすごく欲しい。

俗に言う「感性をみがく」という言葉が大好きです。

感性をみがくという言葉はおかしいと思うんだ。

感性というのは、誰にでも、瞬間にわき起こるものなのだ。

感性だけ鋭くして、みがきたいと思ってもだめだね。

自分自身をいろいろな条件にぶっつけることによって、はじめて自分全体のなかに燃えあがり、広がるものが感性だよ。

たまに、感性が欲しいという欲に振り回されることがあります。

手当たり次第手をつけて、結果、浅く広くなって残滓しか残らない。そこに費やした時間やお金を考えると、どう考えても一人で読書をしていた方が良かったと思えることばかり。

こんなことを飽きもせず繰り返して生きてきたのは、それがおかしいとは思わなかったからなんです。

 

感性というと何だか特別な何かという印象があるのですが、感性だけでなく、人に対してもそうで。

自分を成長させたいとか、恋愛したいとか、そういうときに割とネットとか他人の意見や雑誌の情報で勝手にフィルターをかけてしまう。

例えば、雑誌に「◇型男(女)子の落とし方」とか「あなたを成長させてくれる人はこんな人」「こういう男(女)には気をつけろ!」「ストーカーになりやすい人」「メンヘラ退避法」とか、(勝手に考えました)こういうのあるじゃないですか。

 

何かきっかけがあったときに、「でもこの人ってあの本に載ってた特徴あるな・・・」とか「この人といても成長出来無さそうだな・・・」とか無意識にフィルターをかけちゃってたように今は思います。

 

何でも情報を先取りして、なるべく失敗や痛みを回避して、甘い蜜だけ得ようとする。それを成長だとか、感性を磨くだとか、経験だとかって私は思っていました。

 

だけど、それって結局他人の考えで、私にとっての何かは、私がゼロから探して見つけて身に付けていかなきゃ意味がないんですよね。

いわば、今までのは他人の価値観を磨いてただけです。

他人の価値観が合っていることを証明しようと躍起になってた。

 

私の感性は今やっと石ころとして現れた位のもんです。

そう考えると"欲しがり"って無謀です。今までのは他人のものだから気軽に欲しがれたけど、ゼロから自分でってなると、欲しがれなくなります。

すっごく狭く深くなっていっています。今現在。

 

 

 

失敗をごまかすな

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私は一度失敗したことに対して二度としない、みたいなところがあります。

例えば一回遅刻したら、「次は遅刻しないから!」とか言えません。

それは遅刻しちゃうも~んっていうんじゃなくて、相手の私への信用がもう無くなったと思っているからです。

他人のことも根に持ちますが、自分のミスも根に持ちます。

なにかをやって失敗したりすると、その失敗したことにこだわってくよくよ悩んだり考え込んだりするものだ。

そんなことはいっさい気にしちゃだめなんだよ。

悩んだり考えこんだりする時間があったら、もう1度その失敗したことをまったく新しい気持ちでやってみるんだ。

どんなことがあっても、自分がまちがっていたとか、心をいれかえるとか、そういう卑しい変節をするべきではない。

一見、謙虚に見えて、それはごま化しであるにすぎないのだ。 

 NARUTOの映画「火の意志を継ぐもの」で、サクラがナルトにカカシ先生を連れ戻せる?って聞くんですが、そのときにサスケ奪還が失敗に終わった過去の映像が流れるんですね。

だけど、ナルトは「次こそ絶対大丈夫だってばよ!」的なことをサクラに言うんです。

 

私がもしナルトなら、一回目のサスケ奪還のときは「絶対に連れ戻す!」とは言えても失敗した後は、どうせサクラは信じてくれないだろう、コイツ出来なかったくせに何言ってるんだって思われるだろうなって思って「私には無理かもしれないけど、連れ戻したい」とかいう弱い言葉になってしまうと思います。

 

これって自分ももちろんだけど、相手のことも信用していないんですよね。

というか失礼ですよね。相手を勝手に悪い奴にしたてて、信用出来ない理由にしてる。

"それはごま化しであるにすぎないのだ"にぴったりです。

 

私はこの一節を読んで、自分はいつもごまかしていたなって思いました。

強いとか弱いとかってここなんじゃないかって思います。

生きていれば、落ち込まざるを得ないことも、他人から非難されることもある。それはもうしょうがない、避けては通れない。

問題は、その後で、同じような問題なり、チャンスがあったときに、過去の自分を信じてごまかすか、今の自分を信じて挑戦するか

 

それが人を左右すると思いました。

私は卑しい人間にだけはなりたくないです。

 

 

 

期待とは

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期待というのは、自分自身に対してもつものであって、他には期待しない。なんにも求めない。

みんな、人に期待したり、なぜ英雄は出ないのかなどと、そんなことばかり言っている。

自分こそがとは誰も言わない。

尊敬する人をもつことは甘えだと思う。

それよりも、感動を大切にしろとぼくはいいたい。 

 誰かがやってくれると思ってるし、自分よりやれる人がいると思ってる。

私は尊敬する人がたくさんいます。

というか誰にでも尊敬できる部分があり、OOさんのこういうところ尊敬するなぁ・・・とひそかに思っているのですが、甘えと言われるとそうなのかもしれない。耳が痛い。

 

そもそも私は常々二番手以下でいたい人間で、先頭に立ったり、リーダーをしたり、グループをまとめるというのが本当に苦手というか何か恥ずかしいというか、そんな柄じゃないし・・・とか思ってしまいます。

 

中学生のときに持久走の練習で校庭を何十周かする授業があったのですが、私は自分が先頭に立つことは有り得ないと確信していたので、先生の話も聞いていないし、ボーッと走っていたんです。

なので最初はビリの方だったんですが、意外に皆途中でヘバってしまい、自分が謎に一番になってしまいました。

だけど有り得ないと確信しているから、今自分が何周走っているか計算していないのでどこで止まっていいか分からず、そのうち「あれ?私が一周みんなから遅れてるんじゃない?きっとそうだ!」という結論に至り、誰かが止まってから止まりました。

授業後、先生に「いや~意外だったな、でも走るの多かったぞ」と言われました。

 

この話から分かると思うんですけど、ほんと他人任せなんですよね・・・。

期待というと違うんですが、自分には無理、でも他の人は出来ると思う。っていう意識が結構強い。

まぁ生きてきた中で何故か自分には出来ないという経験が多かったので、自分には出来ないけど他人なら出来ると思うから、私は出しゃばらない方がみんなのためだと思う。っていう弱いくせに強靭な決意みたいなものが出来あがったのだと思います。

 

ま、一言で言うと甘えですよね。

でも、こういう人間でいるとあまり敵がいなくて楽なんですよ。

世の中には出しゃばりたくてしょーがない人間や、仕切りたくてしょーがない人間や、リーダーになりたい人間の方が多いから。

言葉を変えるなら、自分の意思が強い人が多いから。

人の意見を受け入れるより、自分の意見をゴリ押しする人の方が多いから。

 

だけど、私のこの考えって、他人が中心にいるんですよね。

というか他人がいて成り立っている、常に他人を意識している。

それって自由じゃない。

 

なんか最近全然自由じゃないなって思うようになってきました。

人間関係も特に問題があるわけでもなく、日常でも何か問題があるわけではないけれど、なんだか考えていないようで、自分の中にいつもしっかり他人がいるなって思います。

 

甘えてるうちは絶対自由なんか手に入らないんだって最近気付きました。

甘えって他人がいるから成り立つものだし。

それが、今までは楽だったんですけど、最近は甘えの楽さより、厳しくても自由が欲しいなって思うようになりました。

 

ルールは一応守らなければならない。

しかし、ただ大勢の人達が守っているから、自分も従っていくという意志のなさではなくて、ルールは守ると同時に、内なる自由、抵抗をつねにもっていく。

そのような大らかで激しい心を、人間的な誇りとしてもたなければならない。

 

 

大らかで激しい心ってすごく魅力的。