≪内容≫
ファミリーホーム―虐待を受け保護された子どもたちを、里子として家庭に引き取り、生活を生にする場所。子どもたちは、身体や心に残る虐待の後遺症に苦しみながらも、24時間寄り添ってくれる里親や同じ境遇の子どもと暮らし、笑顔を取り戻していく「育ち直し」の時を生きていた。文庫化に際し、三年後の子どもたちの「今」を追加取材し、大幅加筆。第11回開高健ノンフィクション賞受賞作。
本書は4人の子どもと1人の大人の女性への取材がまとめられています。
- 美由ー壁になっていた女の子
- 雅人ーカーテンのお部屋
- 拓海ー「大人になるって、つらいことだろう」
- 明日香ー「奴隷でもいいから、帰りたい」
- 沙織ー「無条件に愛せますか」
の五章で成り立っています。
沙織さんが、被虐児から母になり、子供を自ら児童相談所に預けた唯一の大人です。
美由ー解離性症状ー
「忘れちゃうんですよ。昼過ぎに診察して、午前中の時間割が出てこない。朝、何を食べたかも覚えていない。(被虐待児は)瞬間、瞬間を生きているから。虐待の結果、記憶を切って、切って、生きている。(以下略)」
美由ちゃんを引き取った里親さんのお話。
何かを注意するとピタっとフリーズしてしまうという。
「いや」や「ノー」を制限されて育ったことにより、注意されたり、自分の意志にそぐわないことに対しての意思表示ができないというのだ。
意志表示の代わりにフリーズする。そうやって記憶を飛ばす。
映画や小説で目にする多重人格は解離性同一性障害と呼ばれる。
なぜそのような障害が生まれるのか、それは積み重ならない記憶のせいだと書かれている。生まれたときの感情は突発的である。もちろん赤ちゃんなりに意味があるメッセージかもしれない。しかし、泣いたと思えば突然笑う。それが一般的な赤ちゃんだ。
「泣いていたと思ったら笑っていたり、笑っていたと思ったら泣いていたり。これが成長と共にまとまった人格が形成されていくのですが、その大事な時期に、特に幼児期に、性的虐待などのような激しい被害に遭うと、人格がばらばらに形成されてしまうんです。(以下略)」
私たちが言う成長とは何だろう?
私は生活と言えば衣食住で成長は経験値というかなり短絡的な思考だった。
だが、成長というのは連続した記憶を獲得していくことなのだと初めて知った。
連続した記憶なんて当たり前すぎて考えたこともなかった。断片的な記憶もどこかに繋がっているのだと信じて疑うことさえなかった。
「悲しい思いをした時に『悲しい』と感じると、悲しみに関連した外傷記憶(トラウマ)がフラッシュバックしてくる。怖いと思うと、怖い過去がどっと出てくる。性的な興奮を感じてしまったら、同じように過去の性的なトラウマが出てくる。それはつらいことですし、また恐怖だとかの感情を顔に出したら、余計に虐待者を怒らせてしまうので、それらの感情を含めて全部に蓋をするんです。残るのは薄っぺらい"にこにこ笑っている"だけの人格です。そうやって自分を守っているんです」
美由ちゃんは保護される前は、お母さんに見つからないように壁になっていたという。壁になって息をひそめていたのだ。美由ちゃんは保護された施設でも里親さんの家についても能面だった。一言も喋らなかった。
喋るようになっても美由ちゃんの戦いは続いた。保護した場所にいる大人がここは安全な場所なのだと言っても、彼女に染みついた母親の声やイメージはずっと彼女に囁き続ける。彼女の戦いは保護されたからといってなくなるわけじゃない。一緒に戦う仲間が出来たというだけで、彼女はまだ戦場にいたのだ。
雅人ー歪んだ愛着ー
前出の杉山登志郎医師によれば、子どもというのはどんな形であれ、養育者との間に愛着を作らないと生きていけないのだという。虐待的な環境で生きてきた子どもが養育者との間に獲得するのが「虐待的な絆」であり、それは人にマイナスに作用する「愛着」なのだ。
(中略)
痛みや痺れや怒声だけが養育者とのつながりだとしたら、子どもはその感覚だけを頼りに生きていくしかない。これが虐待者との間に形成される<歪んだ愛着>=<虐待的な絆>だ。
こうして作られた虐待的な絆は、虐待の連鎖へとつながっていく。
雅人くんはADHDという診断を受けていた。ADHDと愛着障害の特徴はよく似ているという。ADHDが原因で虐待が始まったのか、虐待の結果が愛着障害を引き起こしたのか、この問題は複雑に絡み合っているという。
雅人くんは他の子とは違う。
だけど、雅人くんと一緒に暮らす里親さんは雅人くんを面白いという。時に理解不能な行動を起こしたり、過去の傷を開いてしまったり、大変なことは本に書かれている以上にたくさんあると思う。雅人くんには妹がいる。その妹を自分が守るのだと言う。雅人くんが馴染みを感じる世界が暴力の世界だったとしても、彼が持っている優しさがそれだけじゃないことを証明しているように思う。
「愛するから殴る」という考え方がある。
この考えが異常なのか私には分からない。だけど、養育者とのつながり(コミュニケーション)が殴ることだったのなら、それはその人にとっては馴染みのある愛着なのだ。
馴染みの世界が正常ではないということは本当に苦しいことだと思う。だって、今いる世界が宇宙で、本当の地球は別にあると言われたって信じられないでしょう?
愛する人の、愛したい人の全てを受け入れるとか過去も愛するというのはとても難しいと思った。
拓海ー自己決定ー
「施設にいる間は、三食とも給食でしょう。学校はもちろん給食だし、施設の食事は右から左に、配膳されたものをただ食べるだけ。『あれが食べたい』という自分の気持ちは、何も反映されない。彼らは自分の意志を伝えて、それがかなったという経験がないの。だって、わが家に来たことだって、彼らの意思じゃないんだもの」
拓海くんと暮らす里親さん家の朝食は自己申告制。あれ食べたい、これ食べたい、一人一人が食べたい物を出す。しかも朝食。どれだけ大変なことだろう。しかし、里親さんは昼食は学校給食で夜ごはんは栄養を考えると好きにできるのが朝食しかないから、と言う。
そもそもなんですが、私には「自分の気持ちは、何も反映されない。彼らは自分の意志を伝えて、それがかなったという経験がないの」ということが全く想像できていませんでした。私自身が妹で、服はお下がりで特に欲しいものがない子供だったからかもしれない。そこに着眼出来なかった。
だけど、よくよく考えてみれば一般家庭の子供というのは息をするように色んな意志を問われ、答え、受け入れられている。
何が飲みたい?どこに行きたい?何がしたい?どの本がいい?今日の夕食何が食べたい・・・etcetc・・・もちろん通らないこともあるけれど、そもそも問われないことの方が少ないように思う。
自分の決定権がない場所での生活では想像力は育たない。拓海くんは好きなアニメも洋服もゲームも何も選べない。何をすればいい?そう里親さんに尋ねる。
もちろん将来の職業に関しても何一つイメージできないのだ。
「ママ、大人になるってつらいことだろ。俺はもう、死んだ方がいい。大人にっても、どうせ俺はバカだから、お仕事はできないし、今、死んだ方がいい。大人になるって、つらいことだろう」
どっしりとした大きな男の子が身体を震わせて、ボロボロと泣きじゃくる。まだ、たった小学四年生だというのに、なりたい夢もなく、高校にも行けない、仕事もできない・・・・・・と泣いている。自分の前にそんな未来しか見えないのなら、それはもう、つらいに決まっている。
拓海くんの章では、拓海くんがいた施設での戦い、拓海くんが通う事になった学校との戦いが描かれていてとても胸が痛んだ。多くの人は虐待をした大人ではないが、施設の職員、学校の保護者や教育委員の人たち側に位置するような気がする。
子供が自分の意思を暴力で表現したとき、それがどこから来たのか、出所まで潜らなければならない。それが社会で子供を育てるということ・・・強くそう思った章でした。
明日香ー喪失ー
「子どもは、養育者に依存して生きる存在です。"捨てられた"も同然のように施設や里親に措置されても、それを認めたくない。"身捨てられる"ことへの不安と恐怖を強く抱いています。しかし時間と共に、事実として向き合わなければいけなくなった時、それは大きな喪失体験となって子供を苦しめます。虐待はトラウマという、傷つけられた体験で語られがちですが、一番重要なキーワードは、喪失なのだと思います」
自分のルーツ。根っこの部分。切り花はすぐに萎れてしまう。根が強く絡むほど植物は強くたくましく生きる。
明日香ちゃんは里親さんのところですくすくと育つけれども、母親の気まぐれな迎えにくる発言で全てが壊れる。一緒に暮らしていた他の子供たちを傷つけ、母親の元以外の居場所を自ら潰していった。もしかしたら明日香ちゃんは、里親さんと仲良くやっていることが大人に知られたら、母親のところに帰れても、また離れ離れになってしまうと思ったのかもしれない。
明日香ちゃんの母親は別の男性と結婚し、その男性との間に二人の子供を授かった。その子供の世話を明日香ちゃんに押しつけるために引き取ろうと画策したのだ。それを分かっていても帰りたいという明日香ちゃんに、里親さんの胸は痛む。ここにいた方が幸せなのに・・・と。
大人から見れば里親さんの視点に誰しもがなると思う。だって、もう奴隷宣言されてるものなんだから。奴隷になるために家に帰る子供を放っておけるほど無関心なら里親にもならないし、こういう本だって読まないし、このブログだって読まないはずだから。
大人だって完璧じゃないことは、大人同士よく分かってる。だから、完璧に子育てが出来なくたってそれを理解できる大人はたくさんいる。だけど、子供を利用するのはだめだ。捨て駒みたいに、それこそ弾丸みたいに扱うことだけはしちゃいけない。
すごくやるせないと共に里親さんの覚悟、強さ、葛藤を感じた章でした。
沙織ー"心"がわからないー
「フリーズしたハートを解凍できるのか」
カウンセラーから言われた言葉が、それに続く。
「それは死んだ人間を生き返らせる作業くらい、困難。死んだ人間を生き返らせるなんてあり得ない」
"心"がわからないと、彼女は続ける。
「研ぎ澄ましていないと、思いやりの行いができない。"ありのままでよい"ということが、難しい、わからない」
長女と次男という二児の母親である沙織さん。
次男はかわいいが、長女は憎くて仕方ないという。
自分が育ててもらったことがないから、どうやって育てていいか分からない。一度手が出ると止まらない。泣く子供の顔は見たくないから見ていない。殺す寸前。でも人間不信だから子どもを預けるなんて考えられない。自分が叩いても、まだ自分が見ている方がマシだと思っていた・・・沙織さんはその後二人をつれて自殺することしか考えられなくなり、精神科に駆け込んだ。そこで沙織さんは医師に二人を殺してしまうかもしれないから乳児院に預けたいと相談し、子どもたちは一時保護となった。
子どもたちと離れたことで、沙織さんは自分と向き合い、なぜ長女に手をあげてしまうのかを考え始める。
私の胸に一番響いたのは、「それは死んだ人間を生き返らせる作業くらい、困難。死んだ人間を生き返らせるなんてあり得ない」という言葉。
それくらい、虐待も性暴力も人を壊す。壊れたままそれでも生きなければいけない、ということはどれだけ辛いことだろう。
どこかで、都合のいい言葉を求めていたんじゃないかと思う。「いつか」とか「きっと」とか。だけど、このカウンセラーが言うことじゃ、もう救いようがないじゃないか。本当に0.001%くらい奇跡中の奇跡が起きなきゃ、ハートは動き出さない。
最後の「おわりに」のページにこんな文章が載っていた。
母親の虐待を受けて育った二十代後半の青年が、母親を殺害した事件の裁判でこう叫んだ。
「僕は今、虐待死させられた子どもの方がずっとうらやましい」
「虐待の後遺症」という視点を持って、「殺されなかった」被虐待児の現実を、私たちは社会全体で見つめていかなければならないと強く思う。
こんな悲しい言葉は一生口にしなくて、頭の片隅にだって浮かばない人間の方が多いんじゃないでしょうか。
第三者が生死で物事の重大さを計っているとして、当事者は愛で見てる。
第三者は被虐待児の生存を望んでる。助けたいと救いたいと、この世で人生を楽しんでほしいと色んなものを見てほしいと思ってる。だけど、そんな願いは自分が愛されて育ったから生まれたもので、愛自体が枯渇している場所からどうやって楽しみを見出せというのだろうか。
しかもその枯渇した場所に第三者が愛を注ぎ込んでもそこはすぐに干からびてしまう・・・。
もちろん、里親さんや施設の職員さんからの愛情ですくすくと育つ子もいる。生みの親を忘れ、前を向いて歩いていく子供たちもいる。全てはケースバイケースだ。
第三者として、自分の愛が砂漠に降る一滴の雨粒みたいに虚しいものだとしても、それがどう変容していくかは分からない。もしかしたら何の意味もないかもしれない。でも、やらないよりやることだし、考えないより考えることだって思う。
まずはそういう考えがあるのだと、そういう親もいて、そういう親に育てられた子どもがいるということを知る。
知ること。知ることは傷付くことでもある。
第三者がいきなりできることはたぶんない。
でも彼らの痛みの何百万分の一をそれぞれが少しずつ背負うことで、それは社会の痛みとして、共通の痛みとして共通の財産にはならないのだろうか。彼らが社会に出た時に、そこに生きる人たちが少しでも自分が持っている痛みの要素を持っていると思えたら、少しでも何かプラスにならないかな。
彼らが体験してきたことを負の遺産として埋めるのではなくて、頑張ったねって讃えたい。かわいそうだったね、とか災難だったね、とか運が悪かったとか、そんな言葉はふさわしくないんだって思う。
本書を読んで、容疑者を責めるのではなく被虐待児の立場から物事を考えるという視点が持てた気がします。この本を読むまでそんな視点があることにさえ気付けなかった。そんな自分がばかみたいです。
子どもの立ち場で、子どもの視点で物事を見る。
私たちはそうやって大人になったのに。いつからしゃがむこと出来なくなったんだろう。
長い記事をここまで読んでくれた人、ありがとうございます。
本当にありがとうございます。