深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

ピンポン①/パク・ミンギュ~強い人間と弱い人間→いじめと想像力の話→そして愚痴になった~

≪内容≫

原っぱのど真ん中に卓球台があった。どういうわけか、あった。僕は毎日、中学校でいじめられている。あだ名は「釘」。いじめっ子の「チス」に殴られている様子は、まるで釘を打っているみたいに見えるからだ。スプーン曲げができる「モアイ」もいっしょにいじめられている。モアイと僕はほとんど話したことがない。僕らは原っぱの卓球台で卓球をするようになる。空から、ハレー彗星ではなく、巨大なピンポン球が下降してきた。それが原っぱに着床すると激震し、地球が巨大な卓球界になってしまう。そして、スキナー・ボックスで育成された「ネズミ」と「鳥」との試合の勝利者に、人類をインストールしたままにしておくのか、アンインストールするのか、選択権があるという…。

 

 

 パク・ミンギュの「カステラ」を年始に本屋でチラっと立ち読みしたときに、すごく面白いなって思って。でも高いので文庫でないかなーBOOKOFFにないかなーとことあるごとに探してるんですがなかなか出合えない・・・。

 

 最初は冷蔵庫の音から始まっていたんですが、村上春樹のゾウ工場的不思議な語り口で、かなり興味をそそられました。まだ手に入れられてないので、ピンポンを先に読む。実は、ピンポンってこれの原作かな?と思ったんですが、違いました。

ピンポン

ピンポン

 

 これとか「GO」とか、ちょっとごっちゃになっちゃってます。にしても、韓国の作家さんの小説は初めて。チベット文学も気になってる・・・。

 

 

 

 

 

 

 

強い人間と弱い人間

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データがない。生命力がないから動力にもならない。人員に数えられてないわけではなく、閉めだされてもいないが、自分の考えを表現したこともなければ同意したこともない。それでもこうして生きている。僕らはいったい、

 

何なんだろう?

 暴力団の実力者が目をかけていると噂されている「チス」といういじめっ子に見つけられてしまった少年は毎日理不尽に殴られまくり、パシられまくる。毎日毎日まるで釘みたいに一方的に撃ちつけられる。

 「やめて」とも言わず逃げる事もしない。ただ受け入れる。そんな少年は後に釘というあだ名をつけられ、「モアイ」というもう一人のいじめられっ子と出会う。

 

 釘は喋らないが、脳内では色んなことを考える。いじめっ子のチスはもちろん憎い。だけど、自分たちは、ただ一方的に殴られ、そこから逃げも隠れもしない(できない)自分たちはいったい何なんだろう?と。

 

 タイムリーな内容が、しいたけ占いのしいたけさんのアメブロに書かれていた。

ameblo.jp

 当たり前ですが別に「強い人間」が全員いじめっ子ってわけではない。特にコメント欄を見ると、強い人間は実は弱い、という意見もあったりしてすごく考えさせられる記事でした。

 

 最近この手の記事に目がとまる。

news.merumo.ne.jp

  要は、人それぞれってことなんだと私は思ってます。

強い人間だから傷付かない。弱い人間だから面倒見てやる。歩くのが速い人がペースを落として遅い人を待ってやる。歩くのが遅い人が早い人に合わせて無理をする。とかって全部白黒で決めちゃってたら、人生はほんとーに絶望しかない。崩壊ですよね。だって、他人の面倒見たり、他人に合わせて無理したりっていうのが標準なら、生きるってだけでものすごくエネルギー使っちゃって仕事なんて、それこそ選ばれし人間にしか出来ないよ。

 

 結局いじめの問題ってこういうことだと思うんです。

「相手の気持ちを考えよう」というのはごもっともなんですが、そんなの出来たらやってんだよ、出来ないからいじめになんだよ、そして考えたくても考えられない人間がいるかもしれない、と私は思っている。

 

 そもそも「相手の気持ちを考えよう」というのは高度な想像力を要すると思っている。「人それぞれ」っていうある種の諦念に辿り着くのにも人それぞれのペースがあるわけです。最初っから「人なんて結局一人じゃん?」という価値観がベースにある人と、「自分を好きになって欲しい、自分を認めてほしい」という承認欲求がベースにある人ではまず進む道が違うわけです。

 

 だけど社会というシステムはそんな個人の感情なんかに振り回されてたら崩壊するので画一化しちゃうわけです。

 「そうそう、人なんて結局一人なんだけどね、でもまあ困ったときとか助け合いっていうのもあるでしょ?だからまあそういうのも必要ってことで、学校で集団行動学びましょうよ」

 「うんうん、認めてほしいよね。じゃあまず人目に触れなきゃ。君がどういう人間かってことをアピールしなきゃ。そうだね、まずは同じ年齢の子達と過ごしてみたらどうかね?その何百人といる子供たちの中で、さあ君は友達百人出来るかな?」

 

 同じクラスにいても腹の底は全然違ったりするんですよね。同じ14歳だからって、臓物まで一緒なわけじゃありゃしません。

でも大人って「みなさんが同じクラスになったのは一つの奇跡でもあるのです。」とか言ったりする。まあ純粋無垢なまま育った先生なのかもしれない。嫌いじゃないけど、oioi無理あるぜ・・・とか思ってしまう私。

 

 結局のところ、想像力っていうのは自然発達するものじゃなくて、それぞれが磨きあげないと使う事ができないものなんじゃないかと最近は思います。それで、そういうものって、ほらプロがプロになるには10年続ける、という話があるように、短期間じゃ取得できないものだとしたら。

 

 釘とモアイは中学生なわけで、もちろんチスも中学生で。想像力でどうにかできる年齢じゃないんですよね。それこそ親が小さいときから想像してごらん?的な教育をしてきたなら別かもしれないけど。(ていうか想像力って人から言われて育つのかがまず謎ですが・・・

 

 中ニ病って言葉がありますが、たぶん中学生ってこの想像力の大きな分かれ道になってると思うんですよ。でも、想像力についてなんて友達と話さないし、そもそも「想像力どうやって育んでる?」みたいな会話自体中ニっぽいですが。ていうか中ニ病って私も中ニ病だったけど(当時の口癖が今日から生まれ変われる!だった。)、黒歴史なんだけど、振り返ってみるとそういう自分が嫌いじゃなかったりしません?私はよく友達に「あーはいはいまた言ってるよ」とか言われたけど、あの時のイケイケドンドンだった自分に結構賞賛を送りたいと思っている。

 

 だから、「自分はいったい何なんだろう?」と思うには早すぎるんですよ。

 たぶん、そこまで同世代の子達の想像力が追いついていない。一人だけがそういう想像力を持っちゃって、だけど、想像力って見えないし成績にもならないから、誰にも気付いてもらえないし、誰かに話したくてもどうやって話せばいいのか分からない。その結果自分でも気付かずに「孤独」という既製品に拠り所を見つけてしまうのかしれない。

 しかも悲しいけれど、この発達した想像力についていけないのが同世代の子供たちだけとは限らない。親や先生や、その他身の回りの大人たちもそこまで想像力を持っていないかもしれない・・・。

 

 このブログを読んでくれてる年齢層が分からないけれど、私が子供時代に思っていた理想の大人はほとんどいない。大人たちは想像力の話なんかしない。目の前にある生活に追われ、毎日のルーティンをこなすのに必死で、「我思う故に我あり」なんて思う前にご飯食べたり乗り換えの電車調べたりよく知らん人のSNSチェックしたりNEVERまとめ見たりしてるよ。

 でもね、そういう大人たちが全員何も考えてないってわけじゃなくて。大人になるってことは、ある意味で子供たちの生き残りなわけだから、全てさらけ出してたら自殺行為に等しいことを無意識に知っちゃった。誰かに殺されるんじゃないよ。死ぬのは病気や事故や事件に巻き込まれるだけじゃなくて、失望でも死ねることを知ったから。

 

 だから思考停止っていうのはある意味で防衛なんです。もし知ってしまったら自分はあまりの悲しみで死んでしまうかもしれない。そういう風に思う人だっている。だから「知らぬが仏」とかいう言葉が昔からあるわけで。

 

 強いからって知識があるからって相手の迷う幸せを奪うことが正しいとも限らない。ていうかそもそも相手がその迷いを幸せに思ってるのか苦痛に思ってるのかも分からない。・・・・・・もう分っかんねえよ!!!!

って私は思う。っていうか不毛だなって思う。人のことを考えるのが。

 

 そもそも根底から「所詮他人じゃん?」みたいにクールになれたらいいのにな・・・と思ったそばから「いやなんかそれは違う気がする」とか思っちゃってまたうじうじと考えだす。無限ループ。

 だってそもそも相手の問題であって私の問題じゃないのにさ、幸せか苦痛か考えて幸せなら見守って苦痛なら何とかしてあげようとか思うのってさ、なんだかホントにおせっかいだなって思う。そしてそれが相手には地獄なんだな、って思うと、じゃあ悩みとか言うなよ~暗い顔すんなよ~と思ってしまうのであった。どうしようとか、言葉に詰まったりするなよ。そう言われたりそんな表情されたら助けを求めてると思ってしまうのだよ。でも、そう言うのもそんな顔するのも相手の自由であって、つまり私が気にしなきゃいいだけの話なのだけど・・・。

 

 はあーーーーーーーッ。

 自己満足なんだけどさ、たぶんまだ期待してるのかな。してるんだろうな。肝に銘じることはできるよ。でも肝が暴れることもあって、それをまだ制御できない。

 

 自分が人に相談したら、相談するってことは相手が自分のために考えるスペースを作ってくれる(時間的にも脳内的にも)ってことで、それを私はものすごく尊いものと思ってるから、その分相談内容の経過を話すのも、自分では「ん?」って思ってもある程度継続してやってみたり、「あ、それは時間とかお金とか性格的にも無理だ・・・」って思ったら、「それは自分には無理じゃなかろうか・・・?」と相談し直したりして、とりあえず自分が相談したことを相手が受け止めてくれたら、相手以上に自分がもっとその悩みに向き合うべき・・・(~すべきとか言っちゃった)とか思ってしまう。それくらい私は自分の時間や脳内スペースを大事にしてるんだろうな・・・と今書いてて気付いた。

 

 人それぞれなのは重々承知なんだけど、そこまで割り切れなくて、自分がこういう思考回路だから、何度も遅刻したり、相談してきて「分かった!」って言って全然やらない人や「OOしたいんだけど~」と会うたびに同じこと言う人に対してどうしても「人それぞれ」って思えない。思えないどころか、人の時間をなんだと思ってるのかな?とさえ思う。だったら言わなきゃいいのに。どうしてできないこと、やれないことを言うんだろう。そんなのtwitterに呟いてればいいじゃん。実際に会う時間作って、やりもしない理想?夢?まあとりあえずやりたいことだけ聞かされて、それだって最初は「やるんだろう」と思ってるから楽しかったけど、それもだんだん「もう騙されないぞ」みたいになっちゃった。

 

 大好きなのに、行きたい場所が正反対だからお別れしなきゃいけなくなって、それはまだ理解出来た。でも、大好きで行きたい場所も同じなのに、歩くペースが違う今は、まだ自分が立ち止まればいいんじゃないかって思ってしまう。でも前に進みたいから立ち止まることに苛立って、自分がまだ大好きだから一緒にいたくて立ち止まったくせに、相手のせいにしそうになってる。

 

 私が一緒にいたくて立ち止まったら、私もイライラして、相手も無理して早足にならなきゃいけなくて、それが相手にとって苦痛、というか地獄なんだよな。別に「待って」とも言われてないし。

 私がいなくても相手は生きていけるし、相手がいなくても私も生きていける。だから別に一緒にいる必要ないよね?って考えたら友達も恋人も必要ないよね?「人それぞれだもんね」って言葉を諦念としてじゃなく信念として使ったら私はすごく寂しい。私にとっては突き放す言葉の一つでもあるから。

 

 でも自分と同じ人間がいないんだから、人はどうしたって人それぞれなんだろうと思う。結局、そう思えないってことは自分の価値観を押しつけるだけになっちゃって、相手に負担かけるだけだから。大好きだからお別れするって綺麗事みたいに思ってたけど、ちゃんとした答えだったんだ。

 

 

 

なんか最近色々思うことあって、ほとんど愚痴、というか自分の脳内対話の書き起こしみたいになってしまいました。(しかも五千字越え・・・)次は「ピンポン」の感想だけ書きます。