≪内容≫
原っぱのど真ん中に卓球台があった。どういうわけか、あった。僕は毎日、中学校でいじめられている。あだ名は「釘」。いじめっ子の「チス」に殴られている様子は、まるで釘を打っているみたいに見えるからだ。スプーン曲げができる「モアイ」もいっしょにいじめられている。モアイと僕はほとんど話したことがない。僕らは原っぱの卓球台で卓球をするようになる。空から、ハレー彗星ではなく、巨大なピンポン球が下降してきた。それが原っぱに着床すると激震し、地球が巨大な卓球界になってしまう。そして、スキナー・ボックスで育成された「ネズミ」と「鳥」との試合の勝利者に、人類をインストールしたままにしておくのか、アンインストールするのか、選択権があるという…。
パク・ミンギュの「カステラ」を年始に本屋でチラっと立ち読みしたときに、すごく面白いなって思って。でも高いので文庫でないかなーBOOKOFFにないかなーとことあるごとに探してるんですがなかなか出合えない・・・。
最初は冷蔵庫の音から始まっていたんですが、村上春樹のゾウ工場的不思議な語り口で、かなり興味をそそられました。まだ手に入れられてないので、ピンポンを先に読む。実は、ピンポンってこれの原作かな?と思ったんですが、違いました。
これとか「GO」とか、ちょっとごっちゃになっちゃってます。にしても、韓国の作家さんの小説は初めて。チベット文学も気になってる・・・。
強い人間と弱い人間
データがない。生命力がないから動力にもならない。人員に数えられてないわけではなく、閉めだされてもいないが、自分の考えを表現したこともなければ同意したこともない。それでもこうして生きている。僕らはいったい、
何なんだろう?
暴力団の実力者が目をかけていると噂されている「チス」といういじめっ子に見つけられてしまった少年は毎日理不尽に殴られまくり、パシられまくる。毎日毎日まるで釘みたいに一方的に撃ちつけられる。
「やめて」とも言わず逃げる事もしない。ただ受け入れる。そんな少年は後に釘というあだ名をつけられ、「モアイ」というもう一人のいじめられっ子と出会う。
釘は喋らないが、脳内では色んなことを考える。いじめっ子のチスはもちろん憎い。だけど、自分たちは、ただ一方的に殴られ、そこから逃げも隠れもしない(できない)自分たちはいったい何なんだろう?と。
要は、人それぞれってことなんだと私は思ってます。
強い人間だから傷付かない。弱い人間だから面倒見てやる。歩くのが速い人がペースを落として遅い人を待ってやる。歩くのが遅い人が早い人に合わせて無理をする。とかって全部白黒で決めちゃってたら、人生はほんとーに絶望しかない。崩壊ですよね。だって、他人の面倒見たり、他人に合わせて無理したりっていうのが標準なら、生きるってだけでものすごくエネルギー使っちゃって仕事なんて、それこそ選ばれし人間にしか出来ないよ。
結局いじめの問題ってこういうことだと思うんです。
「相手の気持ちを考えよう」というのはごもっともなんですが、そんなの出来たらやってんだよ、出来ないからいじめになんだよ、そして考えたくても考えられない人間がいるかもしれない、と私は思っている。
そもそも「相手の気持ちを考えよう」というのは高度な想像力を要すると思っている。「人それぞれ」っていうある種の諦念に辿り着くのにも人それぞれのペースがあるわけです。最初っから「人なんて結局一人じゃん?」という価値観がベースにある人と、「自分を好きになって欲しい、自分を認めてほしい」という承認欲求がベースにある人ではまず進む道が違うわけです。
だけど社会というシステムはそんな個人の感情なんかに振り回されてたら崩壊するので画一化しちゃうわけです。
釘とモアイは中学生なわけで、もちろんチスも中学生で。想像力でどうにかできる年齢じゃないんですよね。それこそ親が小さいときから想像してごらん?的な教育をしてきたなら別かもしれないけど。(ていうか想像力って人から言われて育つのかがまず謎ですが・・・)
中ニ病って言葉がありますが、たぶん中学生ってこの想像力の大きな分かれ道になってると思うんですよ。でも、想像力についてなんて友達と話さないし、そもそも「想像力どうやって育んでる?」みたいな会話自体中ニっぽいですが。ていうか中ニ病って私も中ニ病だったけど(当時の口癖が今日から生まれ変われる!だった。)、黒歴史なんだけど、振り返ってみるとそういう自分が嫌いじゃなかったりしません?私はよく友達に「あーはいはいまた言ってるよ」とか言われたけど、あの時のイケイケドンドンだった自分に結構賞賛を送りたいと思っている。
だから、「自分はいったい何なんだろう?」と思うには早すぎるんですよ。
たぶん、そこまで同世代の子達の想像力が追いついていない。一人だけがそういう想像力を持っちゃって、だけど、想像力って見えないし成績にもならないから、誰にも気付いてもらえないし、誰かに話したくてもどうやって話せばいいのか分からない。その結果自分でも気付かずに「孤独」という既製品に拠り所を見つけてしまうのかしれない。
しかも悲しいけれど、この発達した想像力についていけないのが同世代の子供たちだけとは限らない。親や先生や、その他身の回りの大人たちもそこまで想像力を持っていないかもしれない・・・。
このブログを読んでくれてる年齢層が分からないけれど、私が子供時代に思っていた理想の大人はほとんどいない。大人たちは想像力の話なんかしない。目の前にある生活に追われ、毎日のルーティンをこなすのに必死で、「我思う故に我あり」なんて思う前にご飯食べたり乗り換えの電車調べたりよく知らん人のSNSチェックしたりNEVERまとめ見たりしてるよ。
でもね、そういう大人たちが全員何も考えてないってわけじゃなくて。大人になるってことは、ある意味で子供たちの生き残りなわけだから、全てさらけ出してたら自殺行為に等しいことを無意識に知っちゃった。誰かに殺されるんじゃないよ。死ぬのは病気や事故や事件に巻き込まれるだけじゃなくて、失望でも死ねることを知ったから。
話が長くなってしまったので次は「ピンポン」の感想だけ書きます。