≪内容≫
17歳で天才・立川談志に入門。「上の者が白いと云えば黒いもんでも白い」世界での前座修業が始まる。三日遅れの弟弟子は半年で廃業。なぜか築地市場で修業を命じられ、一門の新年会では兄弟子たちがトランプ博打を開帳し、談志のお供でハワイに行けばオネーサンに追いかけられる…。様々なドタバタ、試練を乗り越え、談春は仲間とともに二ツ目昇進を目指す!笑って泣いて胸に沁みる、破天荒な名エッセイ、待望の文庫化!「今、最もチケットの取れない落語家」の異名を持つ立川談春のオリジンがここに!2008年講談社エッセイ賞受賞作品。
この本を読んでからyoutubeで談春さんの「芝浜」を見たら面白くてね。
多分、この本を読まなかったら一生落語に縁がなかったと思う。
縁というのは偶然や運命のようにみえて本当は自分で選んでいる。
この本を読むまで、私の中での落語は「時代ものであるからして意味がわからないもの」だった。
そういう先入観を通して見ていたから分からなかったのだと思う。
「もし売れなくても、飲み屋でのグチのネタになるから心配するな」みたいなこと言う大人って信用出来る。
「絶対君を売れっ子にするよ」とか「俺についてくれば大丈夫だから」という言葉のリアリティの無さは信用問題に深く爪痕を残すと思う。
嫉妬とは
己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱味を口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。
(中略)
よく覚えとけ。現実は正解なんだ。
時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。
現実は事実だ。
志らくの型破りな行動にモヤモヤしていた談春に談志が言った言葉。
全く嫉妬をせずに生きてきた人はいるなら極少ないと思う。
行動を規制するのは絶対自分なんですよね。
親が悲しむだろう、世間が許さないだろう、生きていけなくなるだろう。
そう思える間はまだいい。
問題は自分が行動を起こせない理由に気付いていないが故に嫉妬心だけが募る場合だ。
自分では気付いていない胸の内に「どうせ分かってもらえないだろう」「今はまだ未熟だからやめておこう」「三年後にやろう」とか自分の基準が出来てしまっている場合。
自分の基準なのに、他人があっさりとそこを抜き出ると焦る。
「まだまだなくせに」「初心者のくせに」「生意気だ」という嫉妬心がすくすく育ち始める。
自分が足踏みしている間に相手が垣根を越えたとしても、それは相手には何の責任もない。
人はそれぞれがそれぞれの問題と戦っている。
もし自分が嫉妬している相手に何の不自由やしがらみが見えなかったとしても、それは相手が巧妙に隠しているか、気付いていないか、なだけ。
本当に自分には何の問題もない、ハッピー!という人間に出会ったらその人は人に弱みを見せることの出来ない人か、弱みがないことがイイ人間だと思ってる勘違いヤローです。
なぜこの本が面白いのか。
それは談春が見苦しい嫉妬心も、談志への甘えも、若き日の自惚れも、包み隠さずに人に伝えられる度量の持ち主だからです。
上っ面だけ着飾ったヤツは、一見完璧超人見えるでしょう。
なんてすごい人なんだ、こんな完璧な人がいるんだ、それに比べて自分なんか・・・と思ってしまうこともあるかもしれません。
でも、本当に人を惹きつける人というのは人間の業に背かない人なのです。
いわゆる人間臭い人です。
嫉妬心は人間の業のひとつ。
持つこと自体は当たり前。
問題は嫉妬心に気付いたら行動せよ!ということ。
自分が変わらなきゃ、他人を貶めたって世界は何も変わらない。
落語は人間の業の肯定
これがまた落語の凄いところだと思う。
改心して、努力して、必死に懸命に生きた結果、つかんだささやかな幸せ、なんていう話は、ただのひとつもない。
寝ちゃいけなくても眠たきゃ寝るし、酒を飲んじゃいけないとなってもつい飲んじゃう。それを認めるのが落語。
落語がこういうものだと知っている人がどれ程いるだろう。
私は全然知らなかった。
しかも、年寄りほど「努力せい!」って大雑把な喝を入れてくるイメージだったので、落語という伝統ものがこんなに安らげるものだと思わなかった。
もちろん、伝統芸能なので修行は厳しそう。
その中でも落語だけでなく歌舞音曲も好きにならなければならない、というのが面白くもあり奥が深いなぁと思った。
談志が「だが君はメロディで語ることができていない」という言い方をしたのが僭越ながら言い得て妙だと思った。
落語は着物を着た大人が一人、紫の座布団に正座し、その身一つで語りだす。
それは芝居でもなければ歌でもない。
観客は目で演者を見ていても内容は耳で理解している。
ただ話すのでは伝わらない。
言葉にはリズムがある、ということは言葉はメロディになる。
言葉をメロディにして語る。それが落語。だから歌舞音曲も繋がる。
う~ん。奥が深い!
つい楽な方に流されてしまう人間の業を肯定するのが落語なら、現代に必要なのは落語なんじゃないのかなと思った。
高度経済成長期の名残で努力こそ美みたいな風潮ですが、もっともっと遡って、古典落語が生まれた時代の考えに戻ってみては。
何も先人たちは頑張り続けなければ壊れてしまうような脆い社会を作ったわけではないと思うから。
もしコンビニが24時間じゃなくなっても人は死なない。
その時間、みんなが寝れるなら問題ないのだ。
スタートラインに立つ覚悟
あのな、誰でも自分のフィールドに自信なんて持てない。でもそれは甘えなんだ。短所は簡単に直せない。短所には目をつぶっていいんだよ。長所を伸ばすことだけ考えろ。
談春の長所がマラソンなら、マラソンで金メダルとるための練習をすればいいんだ。マラソンと一〇〇メートル、両方金メダルはとれないんだよ。
マラソンと一〇〇メートルではどっちに価値があるかなんてお前の考えることじゃない。
お前が死んだあとで誰かが決めてくれるさ。お前、スタートラインに立つ覚悟もないのか
弟弟子の志らくが先に真打(落語家の最上位)になった時にさだまさしが談春に言った言葉。
談春は状況ではなくて、自分に走り続ける覚悟がなかっただけじゃないか・・・とそこで真打になるべく前進するのだった。
この「短所は簡単に直せない。短所には目をつぶっていいんだよ。長所を伸ばすことだけ考えろ。」は結果を出している人ほど言いますよね。
人は苦労が好き。
頑張って克服する、頑張って成功する、そういうプロセスが大好き。
だからメディアがそういう取り上げ方をする。
それを見た人は「成功するためには努力しなきゃ!」と躍起になる。
自分の長所も短所もしらないままに。
別に頑張らないで何かを得たってそれでいいんです。
だってこの本にそう書いてあった。
落語なんて「いきなり大金拾っちゃったり、富くじ(現代の宝くじ)の一等が当たっちゃったり、はっきり云って滅茶苦茶、出鱈目なのだ。」とね。
よく葬式でその人の人となりがわかるといいますが、本当に人の価値って死んだあと誰かが決めることだなーと思う。
しかも自分は死んでるからメタクソ言われようが関係ないし。
だから、スタートラインに立ったら走り続けよう。
マラソンと一緒。
途中で歩いたり、休んだり、水飲んだりしながら一進一退。
そんな自分がイヤになったらそういう自分には目をつぶろう。
歩いたり、休んだり、自分の体の声を聞ける自分に気付こう。
修行内容とかすごく面白いんですよ。
空腹とか辛かったとは思うけど、弟子たちで公園で牛乳パックを回し飲みしたり、談志が見かねてチャーハン作ったり、そういう日常がすっごくあったかい。
芸事って本当に、それだけじゃないんですね。
人となり。
それだけで全く興味のなかったことに興味がもてる。
人の情熱は人に感染する。
だから「これが好き!」「これはイヤ!」そう言える人といるのは楽しい。
それは本でも同じこと。
これを読むと絶対に「落語ってどんなもの?」と興味がわくと思います。
一度きりの人生。
色んな世界を見てみることが、私の思う豊かさです。