
≪内容≫
藤沢周平の短編時代小説を北川景子主演で映画化。藩の要職を務める名門・寺井家のひとり娘として生まれた以登。幼少の頃から父より剣の手ほどきを受けていた彼女が、武士の家に生まれた運命を受け入れながら凛として生きていく姿を描く。
美しい景色、気高い魂、鍛えられた肉体、見守る強さ。
人の美しさとは容姿だけにあらず。
初恋の後に続く人生
いい所の一人娘の似登(いと)は幼いころから父に剣の手ほどきを受けていた。それなりに腕はあれど女ですもの、誰も真面目に取り合っちゃあくれない。そんな中、女とかお嬢様とか関係なしに人として向き合ってくれた剣士・江口孫四郎に出会う。竹刀を交えただけで恋に落ちたふたり。しかしお互い許婚がすでに決まっていたため、ふたりはその後二度と会うことも話すこともなかった。
タイトル「花のあと」の「花」とは似登の初恋を表しているんだと思います。恋って、理由はいらないんだなぁ~と思った。この一瞬でお互いがビビっときた感じ。だけど、そこから何一つ進むことができない運命。恋はいつでも叶わない方が美しい。それが何度目の恋だとしても。想いだけが募るから純粋なまま。その純粋さに切なさや美しさを感じるものだと思う。
似登が恋に落ちたと分かった親父は二度と会ってはならぬと娘に告げる。咲いてすぐ散ってしまうさくらのように似登の初恋は散る運命だったのです。
そう思うと冒頭からのさくらのシーンが暗示していたんだと思う。恋が散るとは、ただ単に他の人と結婚することではない。永遠に失ってしまうこと。叶わぬ恋の相手が死んでしまえば、その花は二度と咲かない。それからの似登の人生は花のあと。
この時代の武士は長男以外かわいそうな立場にあった。長男は家を継ぎ、次男以降は似登の家のように後継がいない家に婿に入るか、永遠に実家に幽閉(部屋住み)される他なかった。
次男として婿に行かなかった武士の一生はこちら↓
孫四朗は奏者番の娘と結婚することになり、家督を継ぐため藩に勤務することとなった。そこの上司と嫁が不倫してしていることは知っていたけど、そんなことより藩で働くという生きがいを得た孫四朗は黙認していた。
しかし上司である藤井は不倫がバレるのも時間の問題であり、このことが公になれば自分の立場が危うくなるとして孫四朗を陥れるのだった。
一方、似登は思いを寄せる孫四朗の嫁の不倫現場を目撃してしまう。好きな人には幸せになってもらいたい。例え隣にいるのが自分でなくとも。孫四朗も悲しいけれど似登もとても悲しいのでした。
孫四朗が不倫を黙認していたと知った似登は「なぜ?」と思うが、次男以降に生まれた者は婿に行かなければ結婚も子供も諦めなければならない。ただ飯食らいの厄介者という腫れもの扱いを死ぬまで受けるのだ。
それを考えれば愛のない結婚よりも、生きる意味もない未来の方が嫌だったろう。しかも藩に勤めるというやりがいのある仕事につけた。
孫四朗はさくらのように一瞬咲いて、すぐに散ってしまった。しかし散った花びらを似登は大切に集めるのだった。
似登の許婚として登場した才助。
最初にイケメン孫四朗ときゅんきゅんしてたものだから、ふすまを開けて才助が出てきたときは「ちーん・・・」となったことでしょう。孫四朗は男らしく寡黙な体育会系のイケメンだったのに対し、江戸で学問を学んでいたという才助は大飯食らいで大笑い、いつもヘラヘラしていてなんだか頼りない。
最初は全く心を許していなかった似登だが、孫四朗が自害したことで才助に調査して欲しいとお願いする。才助は似登が集めた花びらを大切に受け取るのだった。
才助ェエエエエ!(゚⊃ω⊂゚)
普通、許婚が他の男のこと調べてほしいとか、そいつの為に復讐するとか言ったら何言ってんだコイツとなりませんかね。しかも聞いたら「一度竹刀を交えただけ・・・」と言うじゃないですか。そんなんで相手と斬り合うとか信じられるかーい!とか思いませんかね。事実似登は恋をしていました。だけど本当に一度竹刀を交えただけなのです。
それだけで恋に落ちてしまうという単純かつ純粋な初恋を「そんなバカな」とか「それだけじゃあるまい」と否定することを一切せず「そうか」とただ受け入れたのです。器のデカさ!
似登は藤井を呼び出し斬り合おうとするが、藤井は剣士を他に引き連れてきており、似登は苦戦する。他の剣士を倒し藤井と決着をつけるところまで行くが後もう少しのところで剣を振り払われてしまう。
剣を持たない似登は「武士の妻になるなら必要な時があるだろう」と婚約が決まったときに父から渡された短刀で決着をつけるのだった。
この短刀が「武士の妻になるなら」と渡されたこと。つまり、この短刀で復讐を果たしたこの一瞬だけは孫四朗の妻になれたのではないか・・・と思ってしまいました。誰のために使ったかって孫四朗への思いのためですし。
そして、この短刀についた血を拭き取ってくれたのは才助でした。その後の処理をしてくれたのも。
孫四朗が剣士として似登を見てくれたのと同じように、才助も一人の人間として彼女を見ていたのだと思います。ただの嫁とか女とかではなく、同じ人として。剣士として戦う彼女はもしかしたら同士討ちになった可能性だってあったわけです。一応藤井も剣士だし。それでも、一人の人間の強い意思を尊重したのです。
昼行燈と呼ばれた才助はその後、家老にまでなったということです。いつもニコニコ、大飯食らいで似登のお尻を触ったり、とってもイイ男には見えない才助。しかしその懐の大きさは計り知れない。
孫四朗が死んでも、満開のさくらの下には才助がいる。似登の花のあとにはまた新たなさくらが咲く。すぐに散ってしまうさくらを一緒に儚むことが出来る相手と歩きだす。
花のあと。
古典では花とだけ書かれているのは「さくら」を表すようです。もうすぐさくらが咲きますね。儚くて美しいさくらの一瞬は毎年見ても飽きない。
語られない部分を汲む、という美しさを感じる名作。