≪内容≫
名画にこめられた豊かなメッセージを読み解き、絵画鑑賞をもっと楽しもう。ヨーロッパの中高生も学ぶ、確かなメソッドをベースにした新しい西洋美術史の教室へようこそ。
ミュシャ展に行ってから、なんか美術が気になっちゃって・・・バベルの塔展にも行こう!と友人を誘って行ってきました。
この本を読んでいたのと図説で予習していったので、友人に「これはね、七つの大罪の・・・」とかいっちょまえに解説しました。
混み過ぎてたのと、図説効果でほぼ通り過ぎました。
三階のバベルの塔(まずバベルの塔までの道のりがハード過ぎる。この構造はバベルの塔だけに、ってことなのか?)に着いたのは見始めてから二時間後でした。
お腹空くわ!!
なぜ美術に惹かれるのか
つまり美術史とは、美術作品を介して「人間を知る」ことを最終的な目的としており、その作業はひいては「自分自身のことを知る」ことにいつかはつながるでしょう。
だからこそ、美術史は哲学の側面を有しています。
なるほど、私が好きになるわけじゃあ。
「自分自身のことを知る」に関してはぜんぜん分かりませんが、「人間を知る」というのは少し分かる気がします。
この時代に人々が何を見ていたのか、何を信じていたのか、そういうのが面白いと思えてきたのは最近です。
たぶん今まで「自分じぶんジブン!!!今いまnow!!」で生きてきたんだろうなぁ~と苦い気持ちで自分を思いました。
ほんとバカを承知で書きますが、バベルの塔の由来は知っていたけど、実在している塔で実話だと思っていました。
ピサの斜塔=バベルの塔だと思ってた。
「バベルの塔ってさー実在するよね?ほら、なんか曲ったヤツ。」と言ったときに「それ・・・ピサの斜塔のことかな?」と言いづらそうな表情を友人にさせてしまったことを私は忘れない。
好きな絵を描いているわけじゃない
画家っていうと、私は自由なイメージがあって、自分が伝えたいこと、描きたいことを描いているんだと思っていました。
宗教画はキリスト教の画家が書いていて、ボスは七つの大罪に関心を持っていたから、その絵が多いんだなぁ・・・みたいな。
だけど実際は依頼主がいて描くというのが基本だったようで、買い手がいる前提で描くのが当然で、好きな絵を描くというのは割と最近のことだと書かれていました。
貧困層の絵が書かれた意味は、それを買うこと=善行のアピール→死後の救済という心理に繋がっていたようです。
善行はただするだけじゃなく、神にアピールすることが大事なのだと・・・。
もちろん善行の気持ちはあったと思いますが、そこには自分の死後の救済も少なからずあったのだと書かれています。
この時期たくさんの慈善団体や病院が出来たそうです。
そもそも善行ってなんのことを言うんですかね?
豊かな人間が貧しい人間にお金を与えること?
24時間TV?寄付?保健所から犬猫を引き取ること?NPO団体?
私にはよく分かりません。
それって自分が好きでやってるんじゃないの?
自分がやろう!やりたい!って思ってやったんじゃないの?
・・・と思ってしまう。
善行をアピールっていうなら、自分が死後の救済欲しいがために貧困層をだしに使ってるだけじゃん?
その結果救われた貧困の人がいたとしても、結果でしかなくって救われない人間がいても「私は善行をした!!」となるわけですよね?
なんか卑しいな~と思う。
相手が何も救われたと感じないならそれって善行じゃなくない?って思う。だから善行か否かはした側じゃなくて受け取った側が感じるものだと思ってる。
西洋の考え方と日本の考え方って大きく違うと思うんですが、それでよく列強に入ったな~とか話し合いになったな~とか昔の人ってやっぱりすごいな、と思いました。
たぶん「ファッ!?こいつらなに当たり前のこと言ってるんじゃ、ていうかなんだこの会議は!?いや、日本が遅れているのか・・・」とか思っていたんじゃないでしょうか・・・。
日本が聖人君子だなんて絶対思わないけど、何かこの本の影響もあってか、不思議に思うところたくさんある。
↑キリスト教徒にとって労働は罰だったり、隣人愛説くくせに戦争ばっかりする話が書かれていてすごくおもしろい。
古代建築が巨大な理由
技法の歴史は、まさに美的追求と経済原理がまっこうからぶつかりあってつくられてきました。
古代建築にピラミッドや始皇帝陵のような巨大なものが多いことからもわかるように、巨大な権力がある時代は、芸術にもさほど経済性を求めません。
な~る~!
なんでこんなでっかいの作れたのかなぁ?って疑問でした。
いくら昔だからって、今の方がクレーン車とかあって楽じゃん!って思っていました。
確かに、こんな大きな遺跡に経済性は皆無な気がします。
他にも色々説明があって、へぇ~!!!と思うところがたくさんあります。一番嬉しかったのは、美術は高尚な趣味じゃなく実用的なものであった、というあとがき部分です。
現代において美術は、かつて有していたような実用的な存在理由を失い、純粋に趣味的な役割しか与えられていません。
いきおい、美術は高尚な趣味として、ともすると分厚いガラス板の向こうで鎮座しているような「ご大層なもの」とみなされるようになります。
しかし、かつて美術はそんなに私たちの生活から遠いところにあったでしょうか。大衆になにかを伝えるために用いられていたような時代の美術品は、ぞんざいに扱われていたかもしれませんが、手の届かないところに隔離されるようなものではなかったはずです。
ヨーロッパの美術館との違いも書かれていて、いいなぁヨーロッパは・・・と思いました。
なんかもっとポップに見たいのに、ひそひそ話さなきゃいけなくて、ぎゅうぎゅうに押されて見なきゃいけなくて、後もつっかえていてそんな余裕がない状況で「はて、この人は何を思ってこれを描いたんだろう?」なんて思えるかいな。
どんな状況でも自分の世界に入れる、没頭出来てこそ本当の好きである。
なんていう考えは間違っていると思う。
そういう人間がいることも分かるが、大半の人間は他人に迷惑をかけたくないと思って生きているし、どんな天才も一人で生きているわけじゃないのだ。
だから自分の見たいという欲求と、他人に迷惑をかけたくないという思考がせめぎ合うのは自然なことだと思う。
まぁ文句言っても、最終日近くに行った自分が悪いので次から中間あたりとか台風の日とかに行きたいと思います。
特設ショップも混んでいて、本気で嫌になったので1Fのショップでがちゃがちゃしました。100円玉4枚しかなかったから二回まわしました、缶バッチ。
ちょっと小話ですが、ボスの絵も多く飾られていたんですが、ボスの絵って↑のバッチみたいに奇怪なものが多く、天から虫のような黒い物体が落ちてくる絵も多いんですね。
で、このバベルの塔展の後家に帰ったらGさんが玄関にいました。
今までの私なら「ひゃあああああああ」となって心拍数がグっと上がるのですが、その日は「やれやれ」と平常心を保ち三分くらいで処理出来ました。
なぜかというと、ちょっとボスの天から堕ちてくる虫(悪魔)に似てるなぁと思ったからなのでした。
Gへの恐怖が薄れるという思わぬ副産物を頂いたバベルの塔展でした。
それから色んな箇所を掃除して、ブラックキャップを新しいのに変えました。そういえば半年経っていたのに捨てていなかったので、効力が切れたor餌になったため、Gはブラックキャップをスルーして入ったのかもしれない、と後で気付きました。
美術ってやっぱり日常的なものだよな、と改めて思いました。