≪内容≫
蜃気楼の村マコンド。その草創、隆盛、衰退、ついには廃墟と化すまでのめくるめく百年を通じて、村の開拓者一族ブエンディア家の、一人からまた一人へと受け継がれる運命にあった底なしの孤独は、絶望と野望、苦悶と悦楽、現実と幻想、死と生、すなわち人間であることの葛藤をことごとく呑み尽しながら…。20世紀が生んだ、物語の豊潤な奇蹟。
やばい・・・これを読み切れたことにものすごく自分で感動しています。
私・・・読書力ついてきたんだなぁ・・・。
内容がどうとかより感無量です。
ラテンアメリカ文学
この本・・・面白いです。
なぜ知ったかというと、桜庭一樹さんの「赤朽葉家の伝説」のあとがきに書いてあったからです。
調べてみると、ベストセラー小説と書かれているし、桜庭さんはラテンアメリカ文学が好きらしいので、ラテンアメリカ文学ってどんなもんやねんって気持ちと、桜庭さんが好きなら私も好きになるはずだ!!という思い込みから読むことを決意しました。
やっぱり人生ノリって大事ですよね。
やれるか分からないけどやってみる。
読めるか分からないけど読んでみる。
で、ラテンアメリカ文学って結局どういうこと?と思ったら、こういうことらしいです。
中南米文学のうち、おもにスペイン語で書かれたものを指す。
マジックリアリズムと呼ばれる幻想性が特徴とされる。
はてなキーワードより
んで、 マジックリアリズムというのはめっちゃ簡単に言うと「え!あり得ないでしょ!」って思うところをそう思わせないような感じです。
本書の中にはたくさん、というかほぼ「ぇえええええ」と思う話なんですが、それが全然違和感がなく「へえ~そうだったんだ」みたいな感じで読み進んでしまうという・・・まさにマジック★ですね。
よく引用されているのが
四年十一カ月と二日、雨は降り続いた。
というところですかね。
そんな雨降るかいっ!!って思わなかったんですよね~・・・読んでる内は。
そんなに長い雨が降ったのか・・・ふんふん。みたいにね、読んでしまう。
こういうのばかり読んでたら現実に戻ってこれるのかしら?と思うくらい現実と非現実が融合しています。
また空想癖がひどくなりそうだ・・・。
蜃気楼の村
彼らは想像のなかにしか存在しない店を、現実のものと考えていた。そこでは手で触れられる物までが非現実的だったからだ。
家具は腰掛けようとすると崩れてしまった。
機械の部分がない電蓄のなかでは雌鶏が卵をあたためていた。庭園の花は紙だったし、暦はバナナ会社が来る数年前のものだった。額縁にはいった版画は、出版されたことのない雑誌から切り抜かれたものだった。
女主人が客の来たことを知らせるとやって来るおどおどした娼婦でさえも、ただの空想の産物にすぎなかった。
どこまでが真実なのか。
そもそもこの小説自体、想像のなかにしか存在しない村なのに、読み手は非現実と分かりつつ、限りなく現実的に読むのではないでしょうか。
読み手はこういった説明文を自分の想像力をフルに働かせて、あたかも自分の目の前で機械の部分がない電蓄のなかで雌鶏が卵をあたためていたり、ふとベランダに目をやると紙の花が土からにょきにょき生えていたり、壁カレンダーにはどこの会社名も書かれていなかったり・・・という風に感じるのではないでしょうか。
特に、「女主人が客の来たことを知らせるとやって来るおどおどした娼婦でさえも、ただの空想の産物にすぎなかった。」という部分は、もはや風景以外の人間でさえ空想で拵えたものなのです。
この小説はどこまでも空想で広がっています。
そもそもブエンディア家の一族が存在していたのかも、この空想のようでいて具体的な100年はなんなのか。
ブエンディア家の始まりから最後まで一貫して登場するジプシーのメルキアデス。
彼の残した羊皮紙の言葉をブエンディア家何世代にも渡って解読してきましたが、最後の一人となるアウレリャノが解読したが最後、マコンドもブエンディア家も消え去ってしまうのです。
このやりたい放題でデタラメで何人アウレリャノとアルカディオ出てくんねん!みたいな結末は、まさに「蜃気楼の村」という最初の説明に帰結するのです。
鏡であり、蜃気楼であったマコンド・・・つまり最初から全てが幻だったのです。
読み終わったあと、今まで読んできた全てが、持っている本の重みまでもがふっと消えてしまったような寂寥感がありました。
「物にも命がある。問題は、その魂をどうやってゆさぶり起こすかだ。」
無から有を生み出す力。
それをまざまざと見せつけられたような気持ちになりました。
いや、もう何かこれはすごすぎる。