≪内容≫
村上春樹が語るアメリカ体験や1960年代学生紛争、オウム事件と阪神大震災の衝撃を、河合隼雄は深く受けとめ、箱庭療法の奥深さや、一人一人が独自の「物語」を生きることの重要さを訴える。「個人は日本歴史といかに結びつくか」から「結婚生活の勘どころ」まで、現場の最先端からの思索はやがて、疲弊した日本社会こそ、いまポジティブな転換点にあることを浮き彫りにする。
最近気付いたのですが、人と人とを繋げるのは言葉ですよね。
挨拶から始まり、世間話、喧嘩、口説き・・・すべて言葉なしでは成り立たない。
だから私達は言葉を勉強する。
人生一生修行ですね・・・。
治ることと生きること
その人がまちがっているとはけっして言わない。人間としてできるよい方法を考え出してゆこうと言うと、その人は納得されるのですね。ところが、そのときに「そんなばかな!」なんて責めるようなことを言うと、その人はものすごい自己嫌悪に陥ることになってしまいます。
(中略)
しかし、治るばかりが能じゃないんですよ。
そうでしょう、生きることが大事なんだから。
色々と心に響く河合隼雄さんの言葉があったんですが、一番私が共感して嬉しく思った言葉を紹介します。
このブログでも何回か書いているんですが、確か【映画】ニンフォマニアック の作中で「ペドフィリアの人は尊敬に値する」的な言葉があったんですね。
彼らは社会的に歓迎されない性癖を持ったが故に、永遠に叶わない欲望を持ち、懸命にそれを自制している、と。
私達はペドフィリア=異常=正常に戻さなければならない、と思うと思うのですが、正常に戻ったら彼らは彼らとして生きていけるのか?
そもそも正常とはなにか?と私は思ってしまいます。
もちろん社会的に許されない性癖であることは知識として知っていますが、それを否定するのは私のどこから出てくるのだろう?といったことです。
自分がそういう被害に合ったとか、被害者の話を聞いて許せないと思ったとか、そういう強い憎しみなりなんなりがあるなら分かるのだろうけれども、私にはそういったものはありません。
今の世の中はSNSなどでものすごく批判される、炎上というものをよく目にしますが、批判している人が放つ言葉の邪悪さはどこから生まれたんだろう?と思います。
「それは許されないことだ!」というのは誰しも分かっていることであって、それが社会から許されないことだとは承知の上で、それでも踏み外してしまった原因を考えることに意味があるのではないかなぁ・・・と思う。
人は簡単に人を否定するけど(私にはそう見えるし、そう感じる)、否定して誰かが救われるのか?と思う。
否定したことによって自分自身は傷つかないのだろうか?
社会的に~人道的に~というのは、本当に自分の内から出てきた言葉なのかな?
知識として常識としての言葉で他人を傷つけるのは、自分も相手も報われない気がする。
だから、自分のしていることがだれに危害を加えているかということは、つねに考えるべきだと思うのですよ。それは西洋流かもしれないけれど、個人の責任の問題ですね。