≪内容≫
村上春樹が語るアメリカ体験や1960年代学生紛争、オウム事件と阪神大震災の衝撃を、河合隼雄は深く受けとめ、箱庭療法の奥深さや、一人一人が独自の「物語」を生きることの重要さを訴える。「個人は日本歴史といかに結びつくか」から「結婚生活の勘どころ」まで、現場の最先端からの思索はやがて、疲弊した日本社会こそ、いまポジティブな転換点にあることを浮き彫りにする。
とても読み心地のいい本だった。
というのも「ああ良かった」と思える部分が多かったのです。
最近気付いたのですが、人と人とを繋げるのは言葉ですよね。
挨拶から始まり、世間話、喧嘩、口説き・・・すべて言葉なしでは成り立たない。
だから私達は言葉を勉強する。
それは小さい時に親や、他の大人を見て覚えるものだったり、座学として覚えたり、本の中で覚えたり、実際に幼稚園や保育園、小学校などで他の子供たちとの共同作業の中で自然に身に付けていくもの。
だから言葉に対して人はすごく鈍感だと思うのです。
というか、自分が使っている言葉と相手が使っている言葉を同じ意味だと思っている。
私はずっと同じだと思っていたんですよ。
例えば相手が「私は怒りませんよ」というのを真に受けて「この人は怒らない人なんだ」と受け取る。
だけど実際は自分の誤りを指摘されると露骨に嫌な顔をする。
これを私は怒ったと判断するが、本人は怒ったという態度だとは認識していない。
私は嘘つき!と思うが、本人はどこ吹く風である。
私は相手をすぐ怒るじゃんか、と思うが、本人にとってはそれでも自分は怒らない温厚な人間であるという自己診断は覆らない。
ここで気付いたのは、私の使っている「怒る」と相手の使っている「怒る」という言葉は記号は同じでも、意味は全く違うということでした。
私はそこで、自然に身に付けてきた言葉だけでは不足であり、そこから自発的に言葉を身につけなければならないんだと思いました。
恐らく、自分が自然に身に付けてきた言葉の意味まで一緒(もしくは近い)である人間を親友だとか、価値観が合うとか、気が合うというのだと思います。
私は「悪」という言葉は、「悪」と言うだけで、全員に伝わるものだと思っていました。だけど、それはAさんには伝わるがBさんには違うアプローチで言わなければ伝わらず、更にCさんに対してはAさんとBさんとまた違う形式で伝えなければ共有できないのだと思いました。
つまり、一つの言葉で生きていけるほど楽じゃないということです。
10人いたら、10通りの方法が必要なのです。
私が「悪って言ったらこれでしょ」っていう態度で10人に同じように接していたら、それは自分の価値観の押しつけなのです。
文字にするととても当たり前なことのように思いますね。
私は、物事の善悪の判断に対しての価値観の違いは十人十色だと分かりきっていても、言葉自体に価値観があるなんて思いもしませんでした。
そして、このことに気付いていない人間は割とたくさんいると思います。
変な話ですが、こう思えば生きていく中で驚くことなんて一切ないんです。
人から言われても「まあそういう考えもあるのか」「この人はこう思ったんだなぁ」と思うと、「変ってるね」とか「えっ普通こうじゃない?」なんて言葉は出てこないんです。
だから私は驚きが多い人ってすごく我が強いなぁと思います。
その我の強さが、その人にとって根深い何かから生まれているなら尊重したいと思うけど浅はかで理由のない押し付けは人間として浅いだけでなく、相手を傷付けます。
何気ない一言で相手を傷つけるのと、誰かを守るために相手を傷つけるのは、同じ「傷つける」でも全然違う。
何気ない一言で相手を傷つけることに対して、あまりに無頓着な人が多い気がします。
知らない内に自分が誰かを傷だらけにしてるなんて嫌じゃないですか?
もちろん、傷つける勇気も必要なときがあります。
自分を守るために、相手を傷つけなければいけない時は絶対にあります。
だから誰かを傷つけることは悪でもあり、正でもあると私は思います。
ただ問題なのは、その考えが自分の体から生まれたものかということです。
誰かが唱えたことを自分の肉体を通して実感しなければそれは生きません。
こういうの考えると、人生一生修行ですね・・・。
治ることと生きること
その人がまちがっているとはけっして言わない。人間としてできるよい方法を考え出してゆこうと言うと、その人は納得されるのですね。ところが、そのときに「そんなばかな!」なんて責めるようなことを言うと、その人はものすごい自己嫌悪に陥ることになってしまいます。
(中略)
しかし、治るばかりが能じゃないんですよ。
そうでしょう、生きることが大事なんだから。
色々と心に響く河合隼雄さんの言葉があったんですが、一番私が共感して嬉しく思った言葉を紹介します。
このブログでも何回か書いているんですが、確か【映画】ニンフォマニアック の作中で「ペドフィリアの人は尊敬に値する」的な言葉があったんですね。
彼らは社会的に歓迎されない性癖を持ったが故に、永遠に叶わない欲望を持ち、懸命にそれを自制している、と。
私達はペドフィリア=異常=正常に戻さなければならない、と思うと思うのですが、正常に戻ったら彼らは彼らとして生きていけるのか?
そもそも正常とはなにか?と私は思ってしまいます。
もちろん社会的に許されない性癖であることは知識として知っていますが、それを否定するのは私のどこから出てくるのだろう?といったことです。
自分がそういう被害に合ったとか、被害者の話を聞いて許せないと思ったとか、そういう強い憎しみなりなんなりがあるなら分かるのだろうけれども、私にはそういったものはありません。
今の世の中はSNSなどでものすごく批判される、炎上というものをよく目にしますが、批判している人が放つ言葉の邪悪さはどこから生まれたんだろう?と思います。
「それは許されないことだ!」というのは誰しも分かっていることであって、それが社会から許されないことだとは承知の上で、それでも踏み外してしまった原因を考えることに意味があるのではないかなぁ・・・と思う。
人は簡単に人を否定するけど(私にはそう見えるし、そう感じる)、否定して誰かが救われるのか?と思う。
否定したことによって自分自身は傷つかないのだろうか?
社会的に~人道的に~というのは、本当に自分の内から出てきた言葉なのかな?
知識として常識としての言葉で他人を傷つけるのは、自分も相手も報われない気がする。
だから、自分のしていることがだれに危害を加えているかということは、つねに考えるべきだと思うのですよ。それは西洋流かもしれないけれど、個人の責任の問題ですね。