《内容》
自分が想像できる”多様性”だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな――。息子が不登校になった検事・啓喜。初めての恋に気づく女子大生・八重子。ひとつの秘密を抱える契約社員・夏月。ある事故死をきっかけに、それぞれの人生が重なり始める。だがその繫がりは、”多様性を尊重する時代"にとって、ひどく不都合なものだった。読む前の自分には戻れない、気迫の長編小説。
読みながらニンフォマニアックを思い出しました。
【映画】ニンフォマニアックの記事を読む。
この物語、愛の話ではあるのですが、その中でペドフィリアの男性に対して主人公が「彼らは社会的に歓迎されない性癖を持ったが故に、永遠に叶わない欲望を持ち、懸命にそれを自制している」と評価するシーンがあるんですね。一般の人は彼を異常者とみなすけど、彼ほど常に努力している人はいない、とね。
人はカテゴライズできないもの
「朝起きたら自分以外の人間になれていますようにって、毎晩思うんだ。性欲が罪に繋がらないならどんな人間だっていい。俺もそういう人間に生まれて、好きな人がどうとかで悩んで、恋人ができて、家族ができて子どもができてってやってみたかったよ。たとえ誰とも両思いになれない人生だったとしても、初めから全部奪われてるんじゃなくて、自分もいつか幸せな家庭を持てたりするのかもって思いながら生きてみたかった。」
自分の中にある「たった一つの異質」が、自分を孤独にする。
みんな多かれ少なかれ悩みはあるだろう。でもそれは他者と比較できる悩みだ。誰とも共有できない悩みではないだろう。普遍的な悩みだと自覚しているから無遠慮に話しかけて勝手に自己開示して、相手からの自己開示も当然やってくるものだと思ってる。
自分の中にある「たった一つの異質」は自己開示に待ったをかける。でもそれはもう待ったではなく無いものだ。元々「無い」のだから待たせることもできない。ただ、曖昧に場を流すことしかできない人は「何を考えているかわからない人」「ムカつく」「死ね」などど排除される。
最初からその枠になど入っていないのに、排除されるのだ。
既に言葉にされている、誰かに名付けられている苦しみがこの世界の全てだと思っているそのおめでたい考え方が羨ましいと。あなたが抱えている苦しみが、他人に明かして共有して同情してもらえるようなもので心底羨ましいと。
これからずっと「たった一つの異質」を自分の真ん中に持ちながら一人で生きていくのか。永遠に誰とも触れ合えないこの世界で生きる意味はなんだろう。恋人も友達もなくただ両親という存在だけが生きる縁となっている。
私は私がきちんと気持ち悪い。そして、そんな自分を決して覗き込まれることのないよう他者を拒みながらも、そのせいでいつまでも自分のことについて考え続けざるを得ないこの人生が、あまりにも虚しい。
だから、おめでたい顔で「みんな違ってみんないい」なんて両手を広げられても、困るんです。
ふと、昔テレビで見たエッフェル塔と結婚した女性のことを思い出しました。最近では初音ミクと結婚した人をyoutubeで見ました。「多様性」という言葉が一定の範囲内にしかすぎず、その多様性からも排除されている人たちのことを描いたこの作品の登場人物とリンクしながら彼らは自分のやりたいように生きていてすごく幸せそうだな、と思ったのです。
その笑顔はもしかしたら本書にある深く孤独な葛藤の先にあるものかもしれない。
だけど、ただ純粋に自分を信じているだけかもしれない。人は一人一人違うのだから苦しみも葛藤も孤独も、感情を表す言葉が重複したとして同じカテゴリーに入れることはできないはずだ。