≪内容≫
僕らは誰も彼女のことを忘れられなかった。
私たち六人は、京都で学生時代を過ごした仲間だった。十年前、鞍馬の火祭りを訪れた私たちの前から、長谷川さんは突然姿を消した。十年ぶりに鞍馬に集まったのは、おそらく皆、もう一度彼女に会いたかったからだ。夜が更けるなか、それぞれが旅先で出会った不思議な体験を語り出す。私たちは全員、岸田道生という画家が描いた「夜行」という絵と出会っていた。旅の夜の怪談に、青春小説、ファンタジーの要素を織り込んだ最高傑作! 「夜はどこにでも通じているの。世界はつねに夜なのよ」
ホラーっぽい感じなんですけど、やっぱり心のどこかで「森見さんだしな、最後は明るく終わるはず!」みたいな楽観的な気持ちで読み進めてしまいました。
これすっごく書評が面白い作品だと思います。
たぶん色んな解釈が生まれて、読者一人ひとりが違う世界を作ったと思います。
私の捉えた「夜行」の世界を書いていきたいと思います!
あ、この作品ネタバレ絶対禁物だと思うので、ご注意ください。ネタバレします。
ネタバレしてから読むと面白さは8割がた減る作品だと私は思います。
「世界はつねに夜なのよ」とは。
夜ってどういうこと?と言われたら何と説明しますか?
私だったら、真っ暗で星やお月様が空に光ってるんだよ、と言うと思う。
だけど、星は昼間だって空に在る。
ただ、太陽の光が強すぎて私達の目に映らないだけ。
夜を考えるとき、想像する光景が星空ならば世界はつねに夜ということは理解できる。
私達が朝だとか昼だとか夜だとか名前をつけてるこの世界。
この世界で起きることに私達は疑問を持たないし、見えるものは見えたまま捉えている。
本作は、私達が見ている景色を反対側から見た世界の存在を描いていると私は思う。
「こうであったかもしれない」過去と「そうではなかったかもしれない」現在
この作品、どーしても個人的に村上春樹感があります。
というのも、妻がおかしくなる(もしくはいなくなる)→夫がその後を追うという流れが私の中では村上節なのです。
そして、≪「こうであったかもしれない」過去と「そうではなかったかもしれない」現在≫とは村上春樹の「1Q84」の言葉です。
「1Q84」ではあちら側とこちら側が別世界ですが、本作「夜行」では、あちら側とこちら側は同じ世界です。
「1Q84」では、「こうであったかもしれない」過去と現実に積み重ねてきた過去は別物ですが、「夜行」では現実に積み重ねてきた過去と「こうであったかもしれない」過去は同質です。
それは夜の世界にも昼の世界にも空に星は変わらずに在ることから説明できます。
ちなみに「1Q84」では、月が二つ出てくるので別の世界の存在が確かなのだと思います。
主人公がいるのは「長谷川さんが消えた世界」ですが、主人公以外がいるのは「主人公が消えた世界」です。
この二つの世界は全く同じ場所にいます。
パラレルワールドじゃなくて、言うなれば私が目を開けた状態の世界と、目を閉じた状態の世界です。
体験談の続きは?
彼らの姿が見えないのは、彼らの世界が私の目から隠されているからにすぎない。そして私の世界もまた彼らの目には隠されている。
「見える」というと霊的なものを考えてしまうので、私の中のイメージは夏目友人帳の風景です。
夏目くんはアヤカシが見える。だから普通の人間の日常生活にプラスして所謂ヘンナイキモノが見えるのだ。
私と同じようにたいていの人間が「見えない」側であると思う。
しかし「見えない」と「存在しない」はイコールではない。
本作において、全ての出来事が実際に起きたことなのだと思います。
並行世界ではなくて、現実世界の時の流れのどこかで起きたこと。
仲間たちの体験談は全て不気味な終わりで幕を閉じている。
「・・・で奥さんは取り戻せたんかーい」とか「家に閉じこめられちゃったのかな?」とか不安になる終わりである。
しかし、最後まで読んでやっとその理由が分かった。
これは「夜行」の物語であり、「曙光」の物語ではないのです。
だから、その先の明るい顛末というのは「曙光」の世界でしか語られないのです。
なんか読了後、めちゃくちゃホラー読みたくなって「リング」に手をつけてしまいました。 やっぱり森見さんの世界観はホラーテイストでもほっこりなのですが、「リング」はそうはいかないだろうな~・・・なむなむ