深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

1Q84/村上春樹~もっとも見慣れた場所ともっとも得意とする行為が生む二つの月~

≪内容≫

「こうであったかもしれない」過去が、その暗い鏡に浮かび上がらせるのは、「そうではなかったかもしれない」現在の姿だ。書き下ろし長編小説。

 

 

 

う~ん・・・。

この小説は今まで(色彩~も含む)の内容とちょっと違う印象です。

今までの村上さんの作品の主人公は「奪われる側」にいたんですが、今回は「奪う側」にも属しています。

 

なんかどう解釈していいか分からない。

全てが暗示的、な印象。

全然関係ないですが、この書評を書きながらカノンを聞いてます。すごく癒される。

 

 

 

 

この世界が偽物ではないと、どうやって証明できる?

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人が自由になるというのはいったいどういうことなのだろう、と彼女はよく自問した。たとえひとつの檻からうまく抜け出すことができたとしても、そこもまた別の、もっと大きな檻の中でしかないということなのだろうか? 

  本作は1984年と1Q84年という二つの世界があり、その入口は首都高の非常階段を降りること、出口は非常階段を昇ること、となっています。

 月が二つ見えたとき、青豆は1984年から1Q84年という別世界にきてしまったと思い、天吾は元いた町から猫の町に迷い込んでしまったと解釈します。

 

 2人は紆余曲折ありながらも出会い、1Q84年(猫の町)の非常階段を昇り、首都高に出ることで元の世界に帰ろうとするが、そこは1984年でも1Q84年(猫の町)でもない、また新たな世界だった・・・。

 という風に私は解釈しています。

 

 青豆が元いた1984年、彼女は高級スポーツクラブの優秀なインストラクター兼殺し屋でした。彼女が殺すのは、女性に性暴力、暴行を加えて壊そうとしているネズミ野郎です。そして彼女にその男をあてがうのは、高級スポーツクラブで出会った財力のある老夫人です。

 

 老夫人の娘は自殺しており、青豆の唯一の親友も自殺という道を辿っていました。そこには男の暴力の影があり、それは老夫人と青豆の絆に繋がっていきます。

 

 もう一人の主人公は天吾。

村上春樹作品にはお馴染みといってもいいと思う、巻き込まれ型主人公です。

天吾と青豆は小学生の一時を同じ教室で過ごしたという過去があり、幼い頃、親に手を引かれ他人の家のドアを開けさせようとした共通の記憶があります。

 天吾はNHKの集金、青豆は宗教の勧誘が目的です。

二人はともに、親と決別します。その行為と自らを絶とうとしたのです。

 

二人はともに親からの系譜を絶つことに成功したと思えましたし、したのかもしれません。ですが、二人の共通の記憶は消えることはなくずっと生き続けていたのです。

「大量虐殺と同じだよ」

 

「やった方は適当な理屈をつけて行為を合理化できるし、忘れてもしまえる。見たくないものから目を背けることもできる。でもやられた方は忘れられない。目も背けられない。記憶は親から子へと受け継がれる。世界というのはね、青豆さん、ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘いなんだよ」 

 

 本作の中でキーワードとして上がり続けるのが「空気さなぎ」という得体のしれない物体(?)です。これはリトルピープルなるものが死体の口から生まれ、空気中に浮いている透明な糸を手繰り寄せ作り上げる繭のようなもの、と私は感じました。

 おそらくこれはこの世界で実際に起きていることで、それを小説にして世界に露呈したのが「ふかえり」という謎の美少女です。

 ふかえりは宗教団体のリーダーの娘であり、死んだ山羊の口からリトルピープルなる小人が六人出てきて(その後ふかえりの希望で七人になった)、彼らとともに「空気さなぎ」を作っていきます。そしてそのさなぎの中にいたのはもう一人のふかえり、作中でいうドウタという分身でした。

 本物のふかえりはマザという母体になり、空気さなぎから生まれるのはドウタという分身という感じです。

 ドウタが生まれたのを知るのはかんたんで、生まれれば月が二つになるとリトルピープルは言う。

 

月が二つになる。

この意味は自分の分離かな、と私は思います。

入口と出口、悪人と善人、奪う側と奪われる側、やった方とやられた方・・・私たちが見えるのは一つの月だけですが、だからといって我々がどちらか一方に完全に寄るかと言うとそうでもない。きれいはきたない、きたないはきれい。

 

 それを体現しているのが天吾の父です。

彼はおそらく天吾の本当の父ではありません。しかし彼の言葉のままに解釈すれば空白を埋めるために彼を育て続けたのです。

天吾の母は誰か違う男との間に天吾を授かった。しかしその男も母も死んで空白になってしまった。作中の天吾の父は空白は誰かが埋めなければならないという意識のもと彼を育てた。

 ちなみに天吾は人妻と不倫関係をずっと続けていたんですが、これを「記憶は親から子へと受け継がれる。」という概念に結びつけると、彼は本当の父親の記憶を受け継いでることになると思う。つまり育ての父に背負わせた空白を彼も生み出そうとしていた、と思える。

 

天吾の父は優秀で熱心はNHKの集金人でした。

自分が死んだときに着せてほしいととっておいた集金人時代の制服。 天吾の賞状などと一緒にとっておいたNHKからの表彰状。

彼は昏睡状態に陥っても、人々の戸口をノックしていました。

わかるよね?NHKの集金人だと言ってドアをしつこく叩き、脅し文句を大声で廊下で叫ぶんだ。僕らがその昔、市川の集金ルートでよくやっていたのと同じように。

作中では天吾と青豆の戸口(あと牛河)に立ち、執拗にドアを開けさせようとします。

青豆のマンションに至っては料金を払っているし、そのシールを戸口に貼っているにも関わらず。

「あなたの人生がどんなものだったのか、そこにどんな喜びがありどんな悲しみがあったのか、よくは知らない。しかしもしそこに満たされないものがあったとしても、あなたは他人の家の戸口にそれを求めるべきじゃなない。たとえそこにあなたにとってもっとも見慣れた場所があり、それがあなたのもっとも得意とする行為であったとしてもだよ」

 

 天吾の父が行ってきた他人の家のドアを開けさせようとする行為はNHKという世界の中では成績優秀という良き立場だとしても、一般の世界で考えれば暴力行為とも思えます。

 これは青豆の両親にしてもそうです。

熱心な教徒は宗教団体では有望でしょうが、一般の世界では子供をだしに使い無理にドアを開けさせようとする強引なやり方です。

 

 作中では他人の家の戸口、と実際的なものになっていますが、これは人の心理にも当てはまると思います。人にはそれぞれ自分の心が閉まってある部屋があるとします。そしてもちろんそこに触れるにはドアを開けなければなりません。

 そのドアの前に立ったとき、あなたならどうしますか。

ドアが開くまでノックし続けますか。

ノックするならどれくらいの強さで叩きますか。

ノックしても出なかったら声をかけますか。

声をかけるならどういった言葉を使いますか。

それでも出なかったら・・・ドアの前に子供を連れていき、相手の同情心に訴えますか。

たとえそこにあなたにとってもっとも見慣れた場所があり、それがあなたのもっとも得意とする行為であったとしても

人は無意識の内に自分の見慣れた行為、得意とする行為を使ってしまうんじゃないかなぁ、と思う。それに頼る、というかそれが無意識に武器になってしまう、というか。

 すごくキツイけど、もしそれが親からの記憶としての暴力だったら。小さな頃から見慣れた行為というのはある意味で人より得意になると思うのです。

 

 天吾の父と青豆の両親がさしているのはまさに二つの月で、一方の世界では善人、一歩の世界では悪人、だということだと思います。

つまり、天吾と青豆は小さな頃から二つの月の下で生きてきて、それが見慣れた空であり、そこで生きることが得意になっていたのではないかと思う。

 

 天吾は数学の予備校の先生でありながら不倫、青豆は優秀なインストラクターでありながら殺し屋という世界。

 もっとも見慣れた場所=数学、スポーツ

 もっとも得意とする行為=責任を負わない恋愛、急所のポイントを見つけること

 

あとは、天吾の父と青豆の両親に関しては社会に個人を明け渡し過ぎると悪になる、というメッセージもある気がする。個人としても思いやりとか、道徳心が、社会のためという大義名分を得たことで失われる恐ろしさ。

 

 

 

 

月が一つの世界はずっと続くか

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人が一人で生きていけない理由ってなんだろう?

一人分の生活のためのお金や、ある程度仲の良い友達、それなりの職場、好きなものや、好きなことがある。

それなのに、人は一人で生きていけないと言う。

親友や恋人を作れと言う。

あるいは、言われなくてもそれを求める。

 

なぜだろう?

生きていくために現実的に必要なものは持っているのに。

 

それはたぶん、太陽だけの世界はないし月だけの世界がないように、人には善の部分と悪の部分があり、その両方を自分一人で担うことができないからではないかと思う。

 

本作の中で青豆の親友が残した手紙にはこう書かれていました。

日々の生活は地獄です。しかし私にはこの地獄から抜け出すことがどうしてもできません。ここを抜け出したあと、どこに行けばいいのかもわからないから。私は無力感というおぞましい牢獄に入っています。私は進んでそこに入り、自分で鍵を閉めて、その鍵を遠くに投げ捨ててしまったのです。この結婚はもちろん間違いでした。あなたの言ったとおりです。でもいちばんの深い問題は夫にでもなく、結婚生活にでもなく、私自身の中にあります。 

 月が顔を出すためには太陽は沈む必要があり、善きことをするためには悪しきことが必要になる。

 占星術の世界では、月は妻、太陽は夫と見ます。

もしも妻である月が閉じこもってしまえば夫である太陽は休みなく世界を照らし続けなければなりません。最初は「妻も色々あるんだろう、俺が頑張ればいいじゃないか、愛する妻のためだ、なんのこっちゃない。」と頑張れたとしても、疲労は訪れます。

 初めは妻への愛情から頑張っていた夫ですが、のしかかる疲労や負担は愛を憎しみに変えます。

 「お前のせいで」

そして月が機能せず、太陽が二つの役割を一人でこなしていく内に分離が始まります。これが二つの太陽の始まりです。

 太陽が二つになれば、色んなものを干からびさせるでしょうし、一つの時よりもたくさんのものを焼き尽くす。

 これは月が二つになっても同じです。もしかしたら女性に生理が来なくなってしまうかもしれないし、海は永遠にどこかに引かれてしまうかもしれない。

私は無力感というおぞましい牢獄に入っています。私は進んでそこに入り、自分で鍵を閉めて、その鍵を遠くに投げ捨ててしまったのです。

彼女の夫はその鍵を見つけることが出来ず、彼女の牢獄を暴力で壊していったのだと思います。

もしも彼女が自分から牢獄を出ることが出来たら、夫は自らの奥底に潜んでいた暴力を呼び起こしただろうか?

 しかし、それと同時にもう一つの仮定も生まれる。

それは夫は彼女が牢獄に入ることを前提として選んだかもしれない、ということ。

妻が牢獄に入っていることが夫の見慣れた光景であったとしたら。

 

 誰かと深く付き合うということは、自分が月になったり太陽になったり、悪になったり善になったりすることで、それは変化し続けること、移ろい続けることになると思うのです。

 そうしなければ生きていけないわけではないけれど、一人でいると「自分にとってもっとも見慣れた場所に留まり続け、自分のもっとも得意とする行為に疑問を抱かずやり続ける」危険がある。

 もちろん全てが危険行為になるわけじゃないけれども。

それに誰かと付き合うことで、相手を絶対神のように不動の位置に置き続けても飼い殺しみたいになると思うのでね、どっちが良いかなんてものは分からない。

 

 だけど本作で二人が二つの月の世界から一つの月の世界に行くというのは、お互いの見慣れた場所を捨て、得意な行為を捨てることに繋がりました。

 一人じゃ捨てられず、青豆は誰かを殺し続けるか自分を殺すかで破滅していたかもしれない。

 

恐らくですが、この物語の鍵になるのは天吾が小説を書きはじめたことだと思うのです。

小説を書くというのは、彼の見慣れた光景でも得意なことでもない、未知な世界であり、結果はまだ出ていない世界です。

それを彼は二つの月の世界で見つけていたのです。

でも見慣れた光景も得意なことも捨てられずにいた。

 

つまるところ、天吾が小説家になるためには、それらを捨てなければならなかったし、健全な世界で物語を完結させる必要があった。もしくは、健全な世界でなければ完結できなかった。

あるいは、小説家という大衆に向けてメッセージを投げかける力を持つためには健全な世界の中で健全な魂を会得しなければならず、もしそれを持たぬまま物語を書くだけの力を持ってしまえば彼は悪しき物語の創作者(リーダー)になっていたのではないか、と思う。

 

 なんでもそうですが、人並み以上に持っているものがあるとしたら、それが暴走しないようにコントロールする必要がある、と私は思っています。

そしてコントロールするために必要なのが、道徳心であり思いやりであり、愛だと思うのです。

そういったものを持たないまま力だけが先走ると、それは誰かにスポイルされ悪用される可能性を十分に秘めているし、なまじ力があるだけの被害は甚大になる。もっと言えば、自分がその力の奴隷になります

 そういった意味で才能は両刃の剣なのです。

 

 この小説の世界は、色んなことが起きすぎて、濃密すぎてわりと息苦しかったです。色んな人間が死ぬし、殺すし、空気さなぎを筆頭に意味の分からない用語も、ふかえりの行方や正体、シェクスピアの意味ありげな引用、ドラッグetc..etc...謎のまま終わっていきます。

しかもそれらがわりに重要っぽい、ミスリード?らしく(ミスリードでもないのか?)丁寧に書かれている印象なので、視点があっちゃこっちゃいってしまい、天吾と青豆が一番地味に感じてしまったのですが、この地味さがリアルなんだよなぁ~と思いながら読んでいました。

 

この小説、村上春樹作品の中では一番個人的な気がする。どこか余裕なさげな印象。この後の「色彩~」ではまたいつも(?)の感じに戻っていると感じるので、文体や人間が大きく変わったわけではないと思うのですが。どことなく「クールになれ!」と情熱を手懐けながら慎重に書かれたような物語でした。

あと、食べ物の描写が少なく、ワインが多い!おかげで何年かぶりに一人でチューハイ飲みながら読みました。笑

文庫の方が通勤には便利ですね・・・。重かった。