≪内容≫
十九歳の里帆は男性とのセックスが辛い。自分の性に自信が持てない彼女は、第二次性徴をやり直そうと、男装をして知り合いの少なそうな自習室に通い始める。そこで出会ったのは、女であることに固執する三十一歳の椿と、生身の男性と寝ても実感が持てない知佳子だった。それぞれに悩みを抱える三人は、衝突しあいながらも、自らの性と生き方を模索していく。芥川賞作家が赤裸々に紡いだ話題作。
これはセックスの話というより性別の話です。
セックスが上手くいかないのは、本当は自分が男だからなんじゃないかと思う里帆。異常なまでに女を極める椿。男性と寝てもどこか上の空な知佳子の三人が織り成す物語。
村田さんは女の子同士の会話にすごく魅力があるな、と思いました。
皆がそれぞれ悩んでいて、それぞれ相手を思ってる。
里帆の憂鬱
それならば、なぜ、こんなに男とセックスするのが辛いのだろうか?誰となら辛くないのだろう?誰とでも辛いのに何故、無性愛者ですらないのだろう?何のために性欲があるのだろう?
好きだけど、セックスが辛くなって別れを繰り返す里帆。
男友達に男のように扱われるのは気分がよく、かわいい女の子をかわいいと思う気持ちがあった。
だからもしかしたら自分は身体は女だけど心は男なのかもしれない・・・そう思い色んな情報を集めたり、男装したりしてみるが、結局女の子には性欲がわかなかった。
そんなに辛いならしなければいいのでは?と知佳子に言われるが、里帆は明確に自分の性欲を自覚していた。
欲望はあるのに、満たされない。
好きなのに、セックスは拷問のように感じる。
そして彼女は"女"を捨て"無性愛者"になろうとしていた。
しかし、その行為はただ纏うモノを変えただけのことで、里帆は結局苦しさから逃れられずにいたのだった。
知佳子は「里帆ちゃんにしか出来ないセックスをすればいいんだよ」と言います。知佳子の言っていることはもっともで、もう一人の女性・椿のいう「里帆ちゃんは女という責任から逃げているだけ」というのも正論な気がするし、里帆の苦悩も分かる。
辛いならしなきゃいいと、一人で生きていこうと思えたら楽なのに。
辛くても誰かと愛の形であるセックスを通じて繋がりたくて、それを乗り越えて誰かと一緒に生きていきたいと思う。
辛いなら逃げればいいってことも出来ない。
誰かの作った前例に逃げこんでも解決しない。
そういう状況に陥ったら、とてもとても大変なことだけれど、苦しみながら自分だけの道を開拓して行かなければいけない。
泣いたり傷付いたり怒ったり、とても温度のある女の子でした。
例えば相手がセックスなしでいいと言ってくれても、そういう問題ではないんですよね。そういう欲望を持ちながら、そのことがうまく処理出来ないというのは、どう考えても不健康で不自然です。
不自然な自分を抱えて生きていくのはキツイ。
年齢でものを言うのはナンセンスかもしれないけれど、まだ里帆は19歳。
こういう問題は時間がものを言うことでもあると思う。
愛するとか好きとか、それだってやっぱり得意な人、不得意な人がいると思う。
愛は滲み出るとか湧き出るとかいうのは、まやかしだと私は思っている。
愛は生理現象ではないから。
知佳子の世界
皆と自分が一つだけちがうのは、皆は永遠に続くおままごとの中にいて、自分だけはひとり遊びを終えて、宇宙をただ漂うだけの平坦な時間の流れへと戻っていかなくてはならないことだ。
知佳子にとって人間は物質であり、宇宙の一部にしか過ぎない。
その中で人間は社会とか家族とか、法律とかルールとか、そういう決まり事を作っておままごとをしているだけなのだと思っている。
小さいころのままごとは「やーめた」と誰かが言えば、砂のご飯も架空の家族も終わるのに、この世界のままごとからは誰も醒めない。
知佳子一人だけがいつまでもままごとの世界にいたいと思っても、どうしてもままごとを続けることが出来ないのだった。
じゃあこのままごとに気付かない人間と知佳子の違いはなんだろう?
「汗、いっぱいかいたねえ」
叔母がタオルで拭いてくれた。叔母が大切そうに触れることで、ついさっきまで、星の欠片にしか思えなかった自分の身体が、物体ではなく肉体になっていく気がした。
自分は、叔母にとっては生きた人間なのだと思いながら、叔母のタオルに染み込んだソルの匂いを嗅いでいた。
「知佳子ちゃんは体温が高いわね」
愛しそうに言いながら、叔母が知佳子の腕の皮膚を撫でた。星の欠片でしかない自分たちが、触れ合ったり接し合ったりすることで、物質ではなく人間というものにその瞬間だけなるんだと、知佳子はじっと自分の湿った腕を見つめながら感じていた。
自分を物体と思ったことはありますか?
私はありません。
宇宙の一部で、歴史の教科書にものらない程の時代に生きているとしても、自分という個体に価値があると、生まれてきた意味があるのだと思って生きてきたし、これからも生きていくと思います。
自分をただの肉の塊か、個体かと感じる違いは「星の欠片でしかない自分たちが、触れ合ったり接し合ったりすることで、物質ではなく人間というものにその瞬間だけなるんだ」なんだと思いました。
「自分を大切に」「自分を認めよう」「自分を愛そう」というのが自己啓発の本では、ありきたりなほど書かれていますが、まずその「自分」というものが分からない場合を考えたことはありますか?
私はありません。
自分といったら私、つまり生きている人間、女、日本人です。
自分が星の欠片という物体か、個体かで迷うことなんて想像もできなかった。
知佳子はずっとままごとの世界に、皆のいる世界に行きたいと思っていたんだと思います。そして、その扉を開けるのがセックスだったのではないかと思います。
だけど、誰としても、この人なら・・・と思う人としてみてもヒトになれずに星の欠片の一部であり続ける。
ありていに言ってしまえば孤独ですよね。
皆と同じ世界にいながら共有出来ない孤独。
仲間外れとか、社会に溶け込めないとか、そういうものではない、原因のない直しようもない不良品みたいな孤独。
ほとんど里帆と知佳子の話で椿視点の話はないです。
彼女の話は「星が吸う水」で同じようなタイプの女性が出てくるので、そっちで自分勝手に補完しました。
「女」という性が持つ影響力、それに振り回される女、抗う女、捨てる女・・・
私の勝手な感覚で、女性作家の作品って繊細で、めんどくさいです。男性作家の作品は分かりやすく論理的ですっきりしています。
でも、めんどくさい部分が愛しい部分だなって思っています。
「性別のないセックス」を求める、めんどくささ不可解さ、苦しさ、だけど逃げない肝の据わり。
そういうところが女性の女性らしい部分で愛らしい部分だと思います。
誰かが作ったハコブネで逃げ出してもどこにも行けない。