≪内容≫
私立探偵フィリップ・マーロウは、億万長者の娘シルヴィアの夫テリー・レノックスと知り合う。あり余る富に囲まれていながら、男はどこか暗い蔭を宿していた。何度か会って杯を重ねるうち、互いに友情を覚えはじめた二人。しかし、やがてレノックスは妻殺しの容疑をかけられ自殺を遂げてしまう。が、その裏には哀しくも奥深い真相が隠されていた…大都会の孤独と死、愛と友情を謳いあげた永遠の名作が、村上春樹の翻訳により鮮やかに甦る。アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞最優秀長篇賞受賞作。
私立探偵マーロウはすごくかっこいいし、それぞれの登場人物の会話もユーモア盛りだくさんで読んでて面白い。
だけどそれだけじゃなくて、カポーティが書いたイノセンスなものがここにもあったように思います。
めっちゃネタバレします!
アイリーンとレノックス
思いっきりネタバレしますが、主人公マーロウが出会った男レノックスは妻殺害の容疑にかけられ、メキシコに逃亡したのち自殺したとマーロウは警察に言われます。
そこでこの事件は解決済みの烙印を押されることになるのですが、マーロウはレノックスがそんなことができるとはとうてい思えない。彼は何の見返りも味方もなく、一人真実を追い求めます。
その中で出会ったのがアイリーンという女性でした。彼女がどういう女性なのかは省きますが、彼女はレノックスの恋人でした。
レノックスが戦争に行き、変わり果てて帰ってくるまで。
あの人はノルウェイの雪の中で、若くして死んでいるべきだったのです。私がこの身の全てを捧げた恋人として。私の前に戻ってきた彼は、博奕打ちの仲間であり、金持ちの淫蕩女の夫であり、だらしなく身を持ち崩した男でした。過去においてはきっと不正なことにも手を染めていたでしょう。
時間はすべてをみずぼらしく、汚らしく、歪んだものに変えていました。ハワード、人生でもっとも切ないのは、美しいものごとが若いうちに命脈を断たれることではなく、年老いて穢れていくことなのです。しかし私の身はそれとは無縁のままで終わることでしょう。
(アイリーン)
金持ちの淫蕩女・・・殺されたレノックスの妻シルヴィア。
ハワード・・・小説家であるアイリーンの夫の編集者。
「女を殺人犯として差し出すのは目覚めがよくない。たとえその女に対してもはや一片の思いを抱いていなかったとしてもね」(レノックス)
君は彼女と夢を共有し、その思い出のバラの香りを嗅ぎたいと望む。その気持ちはよくわかる。しかしそこにはね、共有できるものなどありはしないんだ。何もない。すっからかんの、どんがらのゼロだ。君は暗闇の中に一人ぽつんと残される。
(ウェイド)
ウェイド・・・アイリーンの夫。小説家。
君・・・マーロウ
彼女・・・アイリーン
ベイビーは疲れた。ベイビーは壊れた玩具で長く遊びすぎた。ベイビーはさよならを言いたがっている。
(ウェイド)
ベイビー・・・アイリーン
壊れた玩具・・・去りやらぬ初恋の魔法
アイリーンは戦争に行く前のレノックスを激しく愛していました。
レノックスは戦後行方不明になっており、アイリーンは彼の存在を信じて待っていました。
しかし、アイリーンが求めていたのは戦争に行く前のレノックスであり、戦争によって傷付き変容してしまったレノックスではなかった。
アイリーンの愛したレノックスは永遠に失われてしまった。だけどレノックス自身は血肉を持った人間として自分と同じ世界に生き続けている。
このアイリーンの話を聞いた時、サリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」を思い出しました。
この話も戦地から帰ってきた男の話なのです。
恐らく、アイリーンはレノックスが戦争にいくときに自分の半分を彼に明け渡していたのだと思います。だから彼が(戦争に行く前のレノックス)帰って来なければ、それは永遠にアイリーンの元に帰ってくることはない。
だから彼女は欠けた部分を探さずにはいられなかったし、何か他の代替品で賄うわけにはいかなかった。
一方でレノックスは現実に戦地に赴き、そこで負傷し、ナチスに拷問を受けました。アイリーンが精神世界だとしたら、レノックスは現実世界です。想像ではなく実際にその身に痛みを伴ったのです。
痛みは人を変える。
それは痛みによって変わらなければ生きる事の出来なかった人間にしか分からない感覚であり、それを共有するためには、経験のない人間は想像するしかない。
アイリーンが戦争前のレノックスを求めれば求めるほど、現実のレノックスは否定される。しかし現実に生きていくためにレノックスは変わらなければならなかった。
現実って綺麗じゃない。
ウェイドの言うようにアイリーンは壊れた玩具で長く遊びすぎた。
レノックスが放蕩の妻シルヴィアに対して言った言葉。
「彼女をあわれに思う」と彼は言った。
「救いようもなく自堕落な女なんだ。でも僕はひょっとして、ずいぶん遠回しにではあるけれど彼女に好意を持っているのかもしれない。いつの日が彼女は僕を必要とするような気がする。そしてこの近辺では、欲得を抜きにして彼女のためを思う人間など僕のほかにいないんだ。しかしそのころには、僕は既にお払い箱になっていることだろう」
アイリーンがどうやって生きてきたかは分かりません。
レノックスは救いようもなく自堕落な女に自分を重ねているんじゃないかなぁと思います。
ある意味、イノセンスというのはその人間の核なる部分でもあると思うのです。日々を重ねるごとに傷付いてはいくけれど原型というのはなくならない。
だけど、それが成形される前に誰かに潰されたり、立派な原型を保っていたのに、ある日突然、理不尽にぐちゃぐちゃに踏み潰されたりしてしまうことがある。
そういうものを奪われたり、また自分で修正できることのできない人間のどうしようもない弱さっていうものがシルヴィアにはあり、レノックスはその理解者として、彼女がいつか自分を必要とするんじゃないかと思っているのでは、と思いました。
アイリーンはそういう弱さを抱えてみずぼらしく生きるより、それが失われる前に死んでしまった方がいいと言う。
あり余る富がレノックスに何をくれただろう。
誰もが魅了される美貌がアイリーンに何をもたらしただろう。
金と美では生き抜けない。タフじゃないと生きられない。