深夜図書

不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

夜は短し歩けよ乙女/森見登美彦~恋は理屈じゃないのと、ミュシャ展の感想なむなむ!~

≪内容≫

「黒髪の乙女」にひそかに想いを寄せる「先輩」は、夜の先斗町に、下鴨神社の古本市に、大学の学園祭に、彼女の姿を追い求めた。けれど先輩の想いに気づかない彼女は、頻発する“偶然の出逢い”にも「奇遇ですねえ!」と言うばかり。そんな2人を待ち受けるのは、個性溢れる曲者たちと珍事件の数々だった。山本周五郎賞を受賞し、本屋大賞2位にも選ばれた、キュートでポップな恋愛ファンタジーの傑作。

 

 

 私の中ですっかり癒し部門になった森見さん。

ポップ。ただただポップ。

和風ポップ。京都ポップ。

 

まだ森見さんの本は三作目ですが、全部男性(男子)が女性を追いかける話です。

女性の知らぬところで、もんもんと考えている男性が面白いです。ジョニーを処理するという何ともナマナマシイ表現があるのに、なぜかピュアピュアなのでした。

 

なむなむ!

 

 

 

幸せは貰えない、あげられない

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若人よ、自分にとっての幸せとは何か、それを問うことこそが前向きな悩み方だ。そしてそれをつねに問い続けるのさえ忘れなければ、人生は有意義なものになる。 

 自分で掴み取るものダッ!!

 

幸せを探して夜を歩く乙女、その乙女を追いかける先輩のドタバタ劇。という感じです。

同じところをぐるぐる廻っているのですが、場所は同じでも景色がどんどん変わっていく。恋愛ってこういうものですよね。景色が変わっていくんじゃなくて、自分が変わるから見えるものも変わっていく。

 

それを具現化というか視覚化というか、不思議な現象で表しているのが本作のステキなところかなぁと思っています。

 

この人を幸せにしたい!とか幸せになれますように!とか、思っても他人には何にもできなくって、自分自身でどうにかなるしかない。

 

だから自分の足で、夜に限らず切り拓いていくしかないのですね。

 

人間よ、常に若人の魂忘れるべからず!

少年老い易く学成り難し!

しかし!身体は老いに向かっても精神の柔軟さを保つために、常に柔軟運動を怠るべからず!

 

すわなち!

勉学、散歩、新しきものに触れること!

 

 

 

古本市の神

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出版された本は人に買われる。やがて手放され、次なる人の手に渡る時に、本はふたたび生きることになる。

本はそうやって幾度でも蘇り、人と人をつないでいく。

だからこそ時に残酷に、神は古本を世に解き放つ。不心得の蒐集家たちは畏れるがよい!

 本は集めて満足するものではなく、読んだあと、また別の人間の手に渡ることで生き続けるもの。

その流れを止めるもの、本を殺してしまうもの、不心得の蒐集家たちに神は天罰を下す!

 

 

本に限らず、芸術もそうだなぁと思います。

最近ミュシャ展に行ってきまして。

それまで私は美術に全く興味がなく、ミュシャ展も絵がなんか可愛かったし、チェコ以外で初めて他国に来る!とか言うので行ってみよーかなー位の気持ちで友人を誘って行きました。

 

行ってみたら入場60分待ちで、中に入ったらラフォーレ原宿のグランドセール並に人がいるから、だんだん呼吸が苦しくなってきて、見えないし、進まないし、ストレス半端ないなって思いました。

 

楽しかったんですけど、こういうのもっと普段から、というか身近にならないものかなーと思いました。本とかアートとか、起源はやっぱり情報じゃないですか。

生きていくための情報。

 

食が生きていくための根本的なエネルギーの根本で、掃除とか洗濯とかそういうのも、やっぱり生きていくために必要な清潔さが根本にあって。

 

アートだって生きていくための何かであっていいじゃん、って思ったんです。なんか高尚な趣味だったり奇特な人が好むもの・・・みたいな風に感じてしまって。

 

本もアートももっと気軽にならないものかねぇ・・・と。

そりゃ壊されたり破られたりする可能性を考えたり保存状態を考えるので、美術館で展示することに文句があるわけではないんですが、値段とか、入りやすさとか・・・。

 

ミュシャ展で一番思ったのは、よくこれだけの絵を描いたなってことです。

私は絵の技術的なこととか何も分からないし、何かを得よう!と思ったり教養として見ておこう!と思ったわけではないので、「へぇ~」「かわいい~」「すご!」「ふうん」位の引き出ししかありません。

 

その中で一番思ったのは、絵が上手いとか、大きな絵が壮大だとか、細かい部分の装飾も素敵だとかじゃなくて、才能ってこれだけ書いても飽きずに続けられることだよなってことでした。

 

書いても書いても書きたいものが溢れること、続けられること。

それだけ出来れば何だって才能じゃん、って思いました。

映画「君に読む物語」でノアが言った「自分の誇れる部分は一人の人を愛し続けたこと」というのもそう。

 

 

流れを止めずに続けること。

その流れが不自然ではなく、あくまで自然に流れるような場所を提供する力。

これは「思考の整理学/外山滋比古」で書かれていたことであり、感銘を受けた部分です。

 話が大分それてしまいましたが、

人生は生まれて死ぬように流れているので、自分もその流れにのって生きています。流行りという漢字が示すように。

 

だから、流れを止めると知らず知らずに古本の神に狙われちゃうかもしれません。

本を読んで誰かに薦める。感想を言う。

それを見たり聞いたりした人が1000人いたら1人は気になって手に取ってくれるかもしれない。

それが、流れを止めないことだと私は思っています。

 

 

 

人事を尽くして天命をまて

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かくして先輩のそばへ歩み寄りながら、私は小さく呟いたのです。

こうして出逢ったのも、何かの御縁。

最後の二人の心情の描写が可愛くってほっこりします。

ピュアピュアです。

なむなむ!

 

乙女は「こうして出逢ったのも、何かの御縁。」と呟きますが、何かの御縁になるために先輩は大奮闘していたわけです。

もし先輩が大奮闘していなかったら無かった縁かもしれません。

 

まさに人事を尽くして天命を待つですね!

私は結構この言葉が好きです。

やるだけやったら後は待つだけよ!と思って放り投げちゃいます。

こんだけやったしなるようになるだろう、とかなるようにしかならんだろう、と思うので、人事を尽くすことに頑張りを注ぎますが結果には期待しない。

 

自分が期待する結果より、他人が決めた結果の方が視野が広がったり、新たな価値観に出会ったりするし・・・というポジティブな感情と、期待が裏切られたとき立ち直れないんじゃないか・・・という自分への信頼の無さ故の怖さから、期待を放棄します。

 

だから期待出来る人間って強いなぁって思うときがあります。

 

人ってカテゴライズ出来ないなぁって最近すごく思います。

その人にとっての自然、不自然があるから、無理に型にはめようとしてもガタがきちゃう。

自分にとっての自然が相手にとっても自然なら、それが相性がいいってことになるんだろうな、と思います。

 

 

先輩が乙女に恋をしたのは、少し潤んだ美しい眼をみたとき。

恋っていうのは理屈じゃないねぇ~!と思う。

世の中の美男美女は果たして自分にとって自然だろうか?世の中のモテ情報なり女子力なり男子力なりは自分にとって自然でしょうか?

林檎と達磨と緋鯉となむなむ!