深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

凛の世界/~写真を見るのは大好きだけど、自分で撮ると虚しくなる~

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≪内容≫

銀塩写真と俳句で綴る、凛の世界。

 

本屋さんで試し読みしてすごく気に入った写真集です。

写真に合う俳句がついていて、その言葉の美しさと、短い文字数で表現できる言葉の力を感じた一冊。

 

白銀の世界

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※写真集の中の写真ではありません。

 

私は埼玉県生まれ、埼玉県育ちなので、あまり雪には縁がなく、スキーとかスノボもしたことがありません。

両親は東北育ちなので嫌というほど雪を見てきたようで、母は冬には絶対帰りたくないと言っていました。

 

だからなのか、こういう銀の世界にすごく憧れがあります。

私の好きな俳句を紹介します。

 

山眠る失ふことに慣れるまで 

 

 

凩に放てば獲られてしまふ声 

 

 

雪あかり離れゆく影深くする 

 

一面真っ白な雪の世界を写真で見たり映像で見ると、すごく閉じられた一瞬の世界のような気がします。

ワンシーズンの世界なのですが、現実離れしていて、パラレルワールドのような異世界のような感覚です。

 

切ない映画の舞台は総じて雪が多いと感じていて、「私の男」や「北のカナリアたち」や「春の雪」の最後のシーンなど、雪が舞う中での人々は無邪気ではないんですよね。

そうそう、最近見た「僕だけがいない街」も雪があった。

「ぼくのエリ」も雪の街だった。

 

私は選んだ三つの俳句から

「失うことに慣れるまで眠る」

「声を上げても凩によって届かない」

「雪の夜は明るいはずなのに、その分いつまでも影が消えない」

といったことを感じました。

 

特に、「雪あかり離れゆく影深くする 」は本当なら見なくて済むもの、もっと浅い傷で済むはずのものが、雪によって明確に見えてしまう虚しさのようなものを感じます。

 

雪があるから足跡も残るし、知らなければ良かったこと、知りたくなかったことが、形を現す季節、という風にも感じられます。

 

そういった意味で、雪の明るさは人々の罪や孤独や苦しみを浮き彫りにするのかもしれません。

 

 私の夢の一つに冬~春を東北で越してみたいというのがあります。

このどこまでも閉鎖された美しい真っ白な世界で、私の知らない私が浮き出てくるんじゃないかなって・・・思ってしまうのです。

 

哀しいかな、やりたいけど仕事があり、仕事を捨てるまでの決意がない私なのでした。

 

写真について

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これは私が仕事の帰りの散歩として北参道あたりを歩いていたときに、なんかロンドンっぽい!と思って撮った(ロンドンに行ったことはない)のですが、うん、下手ですね。

なんかぼやーってしてる。

ピンクのネオンがいい感じだったのに、二回撮ったけど鮮明にならなかった。

 

私は風景を撮るのは好きなのですが、人と食事に行ったりカフェに行ったときに写真を撮るのがどうしても腑に落ちない人間です。

 

そのくせ見るのは好きなんですけどね。

スイーツブログとか大好きなので「どこどこのパンケーキ!」とかしょっちゅう見てますし、そういうブログを書いてる人ってすごく写真が鮮明というか、色んな角度から撮っていたり断面を見せてくれたり、お店の雰囲気やテーブル、メニューなども載せてくれているので、すごく見てる側は嬉しいです。

 

コンテンツとしてすごく優秀なんだろうなぁって思っています。

パンケーキを上から撮った写真だけでも「美味しそう!」とは思うけど、お店の外観とか、値段とか、雰囲気とかが分からないと、チキンの私としては不安というか、行ってみたいけど・・・どうなんだろう・・・とか思ってしまうので、そこまで見せてくれると「このお店の雰囲気良さそうだな、美味しそうだし、今度行ってみようかな・・・」と思います。

 

なんですけど、自分では全然録りたい欲がないんです。

というか自分で撮ると虚しくなる。

人物を撮るとか、友達と撮るとか、誰かの記念撮影でシャッターを押すのは全然気にならないんですが、食べ物やお店の雰囲気なども撮るのがどーしてもあんまり好きになれないんです。

 

こんな悩み自体、現代病って感じですよね。

深刻に考える必要はないとは思っているんですが、これだけインスタとか自撮り棒とか流行っているのを感じると、「あれ、私なんかおかしいんかな・・・?」とちょっとだけ眉をひそめてしまいます。

 

しかも、食事に行った相手が「待って!今写真撮るから!!」と言ってきたとき、結構不快に感じてしまう。

なんの権利があって私は今「待て」を命じられているのだろう?と思う。

写真なんて一瞬でパシャって感じなのに、なんかその一瞬でも「なんかなぁ」って思うし、人によっては「あーいまいちだった」とか言って何度も撮ったりする。

 

その瞬間、一気に興醒めしてしまうんです。

その子と話したかったこととか、これからどこに行こうと計画してたプランとか、なんかそういうのワクワク感とかがさーって引いてしまうんです。

 

「ごめんねー!さ、食べよ!!」と今までと同じテンションで相手が言ってきても「あ・・・うん・・・。」みたいな。

たまに「あなたは写真撮らないの?」みたいな写真撮るのが今は当たり前みたいなことも言われるし。

 

私はこのことを割と真面目にずーーーーーーっと考えていたんですが、最近これかも。って思ったのは、写真を撮るまではお互いの空間なり世界だったものが、写真を撮ることによって多くの他人が介入してくるんじゃないかな、っていう考えです。

 

写真って共有するものじゃないですか。

まぁ、自分だけで見るものもあるとは思うけれど。

例えば観光とか、人と写真を撮るとか、集合写真って、元から他人がいる世界なんですね。他人がいて当たりまえの世界。

 

だけど、時間を作って友人なり家族なりと会っている時間って、系列店の喫茶店だろうが、その相手を求めて、その相手のことを考えて、足を運んでいるので、自分の中では写真を撮らなくても共有の世界になっていて、それは目にはもちろん見えませんし、相手にも分らないけれど、小さな一つの(あなたとわたしの)世界なんです。

 

だから目の前の料理がうんぬんというよりは、この世界は私たちだけの空間のはずなのに、どうして他人を招き入れるの?という感覚というか。

 

相手に会う時点で、料理よりも相手の相談なり内容に興味があった(もしくは深刻なことでこちらとしても気合をいれてやってきた)場合、私にとって料理とかお店の雰囲気とかって結構どうでもいいんですよね。

それがどんなに綺麗な料理でも。

 

純粋にこれが食べたい!って思ったときは一人で行ってしまうからかもしれません。そういうときは食べ物にしか興味がないから写真撮ります。記念や記録として。

 

だから、たぶん、相手が写真を撮るのを見るのが嫌なのには、相手は私よりこの小さな世界を大事には思っていないんだろうな、と思うからなんだろうな、と思いました。

 

書いてたら自分メンドクサイ人間だなって心底思ってきました。

世間のインスタ流行に取り残される、というかどうしても乗れない私は結構かなしいです。

相手に合わせて「私も撮ろっかな」って撮った写真って確認することもないですし。ただのポーズです。虚しすぎる。

 

そのうち、相手と会うことじゃなくて写真を録ることが目的になっちゃったりはしないのかなぁ?って思うのですが、そんなことはないのかな。

風景の写真集は大好きです。こんな美しい写真と同じくらい美しい言葉が溢れてくるような美しい人間になりたい。