深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

ピンポン②~自分の生き方次第で誰でも空間と次元を移動できる~

≪内容≫

原っぱのど真ん中に卓球台があった。どういうわけか、あった。僕は毎日、中学校でいじめられている。あだ名は「釘」。いじめっ子の「チス」に殴られている様子は、まるで釘を打っているみたいに見えるからだ。スプーン曲げができる「モアイ」もいっしょにいじめられている。モアイと僕はほとんど話したことがない。僕らは原っぱの卓球台で卓球をするようになる。空から、ハレー彗星ではなく、巨大なピンポン球が下降してきた。それが原っぱに着床すると激震し、地球が巨大な卓球界になってしまう。そして、スキナー・ボックスで育成された「ネズミ」と「鳥」との試合の勝利者に、人類をインストールしたままにしておくのか、アンインストールするのか、選択権があるという…。

 

 

 

 

世界とは多数決だ。

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 いじめられるのも多数決の結果だ。あるとき、実はそうなんだってわかったんだ。初めのうちは何もかもチスのせいだと思い込んでた。そうじゃない。僕をとりまく四一人がそれを望んでいるんだ。多数の、多数による、多数のための冷風がまた送風口から暴風みたいに吹きつけてくる。手を伸ばして送風口のバルブを閉めようとがんばってみたけど、故障したバルブのカバーの片方がフュー、フューと騒音を出し始めたので、またバルブを開けた。絶対寒いんだけど、僕はもう何も言わなかった。

 

 エアコン切って下さーい、と叫ぶのは、僕をいじめないでよって大声で言うのと同じことだ。

 多数決って楽な分、正義も殺すよな、と思う。いじめに限らずなんでも、その環境の中で最良の意見ではなく、そこにいる人間の力によって決まる。

 それは社会の常識とか倫理を超えて、その場にいる人間たち次第で決まってしまう。だから密閉された環境に対して人は無意識に脅威を感じる。なぜならそこにあるものが正しいものだったとしても、正しいものは正しいものしかない場所では正しくないからです。正しいものが正しくあるためには正しくないものが必要だから。

 

 つまり、いじめの主犯格であるチスではない四一人のクラスメイトたちは、自分たちが正しくあるために正しくないものであるチスと釘が必要である、と考えることもできる。

 なんだか哲学的な話ですが、自分が自分であるためには他人が必要なわけで、そこに在るってだけで未来永劫にわたって不変なものなんて何一つないと思うのです。

 

 世界とは多数決だ。

その通りだと思う。それは変えられない気がする。というか変えてどうするっていう代替案が今の私には思い付かない。だから覆すなら「世界」を変えるしかないと思う。今いる環境から離脱して、別の「世界」へ行く。結局どこに行ったって根本の上下関係は変わらないのだけど、個人範囲の「世界」はものすっごく変わると思う。まあ、でもどこの「世界」にも多数決はあるわけだから、自分の居心地がいい多数の世界に生まれたらとんだラッキーであって、それ以外は移動か我慢を強いられる、とも考えられる。

 

 結構シビアな本である。

 

 

 

 

 

世界はいつもジュースポイント

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誰かが四〇万人のユダヤ人を虐殺すると思えば、また誰かが絶滅の危機に瀕しているザトウクジラを保護する。誰かがフェノールを含む排水を放流するかと思えば、また誰かが一兆ヘクタール以上の自然林を保存する。たとえば11対10のジュースポイントから11対11、そして11対12になったらしいぞ、っていう瞬間にまた12対12でバランスがとれちゃうんだね。これこそ退屈な観戦だよ。今この世界のポイントはどうなってるか、知ってるかい?

  今更ですが、この話はいじめられっ子の釘とモアイが原っぱで卓球台を見つけて、自然な流れで卓球をし始めて、そこに卓球を教えてくれるもともとフランス人だけど韓国に住み着いたセクラテンっておじさんが現れて、三人で卓球やってたら、実はセクラテンは昼の話は鳥が聞き、夜の話はネズミが聞くおじさんで、だからおじさんの双子は鳥とネズミで、委員長も息子らしいけど委員長には母ちゃんがいるから委員長で、そんなこんなで釘とモアイは世界のインストールとアンインストールをかけて双子が持ってきた箱の中に入ってた規則正しい鳥とネズミと戦う話です。

 

 村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」では「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。」と言っていて、これって今更ながら音楽=鼓動のことかな、と思ってきたのですが

 

 本書では「絶えずフォームを整え続けるということ」と言っている。

球を送るんじゃない。本当のところはその、整えたフォームをむこうへ届けているんだよ。わかるかい?卓球において負けるとは結局、そのとき相手のフォームが自分のフォームより完成されていたという意味なんだ。

(中略)

・・・・・・いいかい、わかりやすく 三〇年卓球をやってきたとしよう。つまりそれは言い変えれば、私が三〇年かけて整えてきたフォームが君に返されたというわけだ。ラケットに触れた球が一瞬で一週間のフォームから三〇年のフォームへと変性する。それは移動だ、空間と次元の移動。

  肉体的移動ではなく、精神的な移動。会話によるコミュニケーションではなく卓球によるコミュニケーション。やり方は一つではないのだ。

 

 この引用文の下りが私的にはすごく好きで、たぶん一過性のものより積み重ねられたものが好きだから、いいなぁと思って読んでました。

特に、「卓球において負けるとは結局、そのとき相手のフォームが自分のフォームより完成されていたという意味なんだ。」という部分。

その人が生まれ持ったものではなくて、やり方、年数、努力、そういったもので勝負するという考えがすごく好き。

 

 「ダンス・ダンス・ダンス」における音楽=鼓動なら、「ピンポン」におけるフォームは=生き方、なのではないかと思う。生き方というのは崩れる。「私はありのままで生きてくことにする!」と宣言した半年後「いややっぱ無理だわ」となることはザラにある。だから都度都度調整していかなきゃいけないもんだし、無意識に調整して皆生きてると思うのです。

 

 フォームを整え続けるということが、生き方をアップデートし続けるということなら、「絶えずフォームを整え続けるということ」というのは「生き続けること」になり、結局「ダンス・ダンス・ダンス」においても、踊り続けろ=生き続けろというメッセージと思っているので、こういうメッセージを物語として伝えることができるのが作家という職業なのだなぁと思うとかなりロマンチックですね。

 

 自分の生き方次第で空間と次元を移動できるというのは、まさに温故知新じゃないか。特別な人にしか出来ないんじゃない。誰でも空間と次元を移動できるのだ。ロマンぱない!