≪内容≫
高い壁に囲まれ、外界との接触がまるでない街で、そこに住む一角獣たちの頭骨から夢を読んで暮らす〈僕〉の物語、〔世界の終り〕。老科学者により意識の核に或る思考回路を組み込まれた〈私〉が、その回路に隠された秘密を巡って活躍する〔ハードボイルド・ワンダーランド〕。静寂な幻想世界と波瀾万丈の冒険活劇の二つの物語が同時進行して織りなす、村上春樹の不思議の国。
好きな順で読めばいいのですが、世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドを先に読んでいたらもっとダンス・ダンス・ダンスに入れていたのかも・・・と思いました。
シリーズじゃなくても繋がっているものですね。
ハードボイルド・ワンダーランド
「正確にはそうじゃないです。しゃべれるとかしゃべれないとかは、本質的にはたいした問題じゃないです。それはひとつのステップにすぎんです。」
よくわからない、と私は言った。
私はだいたいが正直な人間である。わかったときにはちゃんとわかったと言うし、わからないときにはちゃんとわからないと言う。
曖昧な言い方はしない。
トラブルの大部分は曖昧なものの言い方に起因していると私は思う。世の中の多くの人々が曖昧なものの言い方をするのは、彼らが心の底で無意識にトラブルを求めているからなのだと私は信じている。
そうとしか私には考えられないのだ。
本書は「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」の二つの世界があって、その世界が交互に出てきます。
「ハードボイルド・ワンダーランド」の世界観は上記引用部分の「よくわからない、と私は言った。~」がもっとも如実に表していると私は思います。
主人公は極めて冷静かつ客観的で、いわゆる厭世感のようなものを感じます。主人公である「私」は、一人で完結しています。
この世界に生きていながら、誰とも繋がろうとしない。
「人間らしい」「人間臭い」という表現があるように、人間は生きているだけでは「人間」とは見做されないという不思議な現象がある。
「あいつは血のない人間だ」とか「熱い人」と言うように、人間にも温度がある。それは体温とは違うもので、目にも見えなくて、触っても分からない。
ただ感じるもの。
その温度が他人に伝わるほど「人間らしい」に近付く。
そして、この温度が低い人のことを「冷たい人」「なにか欠けている人」「厭世的な人」と言う。
社会の中で、仕事も出来るし犯罪を犯すわけでもない、迷惑をかけるでもないのに、なんだかよく思われない。
それはなぜか。
主人公が曖昧を非難するところにこそ答えがある。
人は曖昧な生き物で、曖昧だからやっていけるのだということなのです。私もこの主人公のような考えを持っているので、共感する部分でもあり、ここが欠点でもあるのだと日常の些細なところで気付いたり、他人との会話で気付いたりします。
人間社会というのは、ほとんどがグレーゾーンなのです。
どうして曖昧にするか、本心をストレートに言うのを良しとしないのかというと、はっきり自分の感情を伝えるのは効率はいいが、コミュニケーションとしては落第点ということになるからだと思います。
私にとっては本心を言うことこそてっとり早くうち溶け合う方法だと思っても、長期的に見ればその一言のせいで、わだかまりが残ったりするのです。
つまり、その場その場の関係と思えばこそ、効率的に白黒つけられて、長期的な関係を保ちたいと思えばこそ曖昧になっていくものなのです。
一応将来のことを考えてはいても、主人公は瞬間的にしか生きておらず連続した世界に生きようとは思っていない。
怒りとか悲しみとかがなぜ生まれるかって、それが瞬間ではなく連続して続くものであり、連続して続いてきた中での出来事だからなんですよね。
私の世界はハードボイルドであり、そんな世界はワンダーランド(不思議の国)だとも言えるでしょう。現実でありながら現実感のない世界、作り出したのは主人公自身。
世界の終り
「たぶん私がチェスに凝るのと原理的には同じようなものだろう。意味もないし、どこにも辿りつかない、しかしそんなことはどうでもいいのさ。誰も意味なんて必要としないし、どこかに辿りつきたいと思っているわけではないからね。我々はここでみんなそれぞれに純粋な穴を掘りつづけているんだ。
目的のない行為、進歩のない努力、どこにも辿りつかない歩行、素晴らしいとは思わんかね。
誰も傷つかないし、誰も傷つけない。誰も追い越さないし、誰にも追い抜かれない。勝利もなく、敗北もない」
世界の終りでの「僕」は、影(心)を切り取られ夢読みという仕事に着く。
夢読みの証として、目に傷をつけられるため太陽を直視することできなくなる。ある程度暗くなってからしか外に出ることが出来ず、サングラスまで渡されることになる。
「世界の終り」の世界はそこにいる住人は影を持つことが出来ず、壁に囲まれて暮らしている。
争いも競争もない平和な世界です。
しかし僕から切り離された影は言う。
「影が死ねば夢読みは夢読みであることをやめて、街に同化する。街はそんな風にして完全性の環の中を永久にまわりつづけているんだ。不完全な部分を不完全な存在に押しつけ、そのうわずみだけを吸って生きているんだ。それが正しいことだと君は思うのかい?
それが本当の世界か?
それがものごとのあるべき姿なのかい?
いいかい、弱い不完全な立場からものを見るんだ。獣や影や森の人々の立場からね」
この話はオメラスを思い出させます。
風の十二方位 (ハヤカワ文庫 SF ル 1-2) (ハヤカワ文庫 SF 399)
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街の平和を保つため、子供を一人閉じ込める。そのことを住人は全員知っているが、子供を解放すれば街の平和は崩れるために誰も助けようとしない。
たまに街を出ていく人がいるだけ・・・。
簡単にいうとこういうお話なんですが、「世界の終り」での子供役は一角獣が担っています。
一角獣は人々の心を吸収し回収し、その自我を体の中に貯め込んだまま死ぬ。獣が死ぬのは自我の重みであると影は言う。
自我を誰かに預けるということの罪を話しているんだと思います。
自我というのは自分です。
自分を誰かに明け渡す、預ける、というのはとても無責任であり、自我は捨てられるものではなく、結果的には誰かが尻拭いをしているのだということを話しているのかな、と感じます。
世の中のいろんな争い、競争、マウンティングに疲れて、何も争いのない世界に生きたい・・・と思うこと、実際にその世界に足を進めること、それは自分にとっての出来事に治まらず、周りの人間も巻き込むことになる。
誰も巻き込まずに生きていくことは無理なのに、誰も巻き込んでいない、平和な世界だと住人たちが思っていることに対しての警鐘なのだと思います。
少し宗教的な話に私は感じます。
なんでも「神が決めてくれる」「教祖さまが教えてくださる」というのに近くないですか。私の友人の母がもっぱらこの台詞を言うようで、子供である友人はとても悲しんでいます。「母は無責任だ、話していても本人の気持ちが見えない」とね。
しかし私は宗教を忌むべきものとは思っていません。
宗教があるから生きていける人、やっとこさ自我を保てる人、現実世界に生きていける人がいるという事実があるんです。
「いいかい、弱い不完全な立場からものを見るんだ。」というのはまさにこのことで、現実世界で楽しく生きていける人、辛くても前を向ける人、悲しくても笑うことが出来る人は、自分の立場からだけではなく、弱い不完全な立場からの視点も持つべきなのです。
上記のような人を「強い人」と仮定します。
強い人は弱い立場の人間、例えば宗教にハマる人やいじめられる人のことを「弱い奴だ、自分で決断することも出来ないんだ、いじめられる側にも問題がある」等と言ったりします。
これは強い立場の人間が弱肉強食の理論で話しているなら別に間違ったことじゃない、現実や結果の話をしていると思います。
「悲しくても笑うんだよ!」
「泣いてたってなにも始まらないよ!」
「そんな小さいことでくよくよするな!」
とか、自分が出来たことは他人にも出来るはず、私が出来たんだからあなたも出来る!という本人たちにとっては「励まし」という善き行いは、同じ立場の人間にとっては正常に「励まし」として伝わりますが、違う立場の人間には正常な「励まし」の形では届きません。
弱い立場の人間からしたら「無理強い」や「強行」に変換されて届く場合もあると思うのです。
自我というのは一つです。
しかし、視点は無限大に持てると思います。
女性として、大人として、日本人として、埼玉県民として・・・とか色々。
その中で自分が強い人間だと思うなら、弱い立場の視点も持つべきなのです。
強い人間からしたら「あいつはいつもおどおどして、人に媚びてばかりだからいじめられてもしょうがない」という風に思ってしまうことも、弱い立場から考えたら「胸を張って歩いたら生意気だといじめられるかもしれないし、媚びを売らなくてもまた生意気だと思われるかもしれない、そう思うとどうしていいか分からなくておどおどしてしまう」という風に考えることができる。
いいとか悪いとか、強いとか弱いとか、そういう一面だけを過信するのは寂しいことのように思います。
それは切り捨てるものが多すぎる人生な気がするので。
白黒つけるべきなのは、浮気とか不倫とか、自分の名誉に関わることで、他はAでもあるがBでもある、でいいんじゃないか、いいじゃないか・・・
エンドロール
で、結局これはハッピーエンドなの?バッドエンドなの?と思って数日間ずっと考えこんでしまった私ですが、結果良い方だと思いました。
ハッピーとは違うけど、悪くはない。
現実世界=ハードボイルド・ワンダーランド
内在世界=世界の終り
私=僕
であり、現実世界で私は博士の遊び心のせいで博士の創った世界に閉じ込められます。
その時、内在世界での僕は影だけを街から出して自分は街に残ることを決めます。
最後、僕は影と一緒に街を出ようとしていました。
弱いものに自我を押し付けた世界で生きていくことを良しとしなかったのです。
しかし最後に僕は街に残ることを決意します。
それは、争いのない世界に身を置くことではなくて、心を失った人に寄り添うことを決めたのだと思います。
この決断には代償が伴います。
まず、影が死なずに街から出たことで、僕は街にいることが出来ず森に隔離されます。
心を失った人間に囲まれ、獣が死んでいくのを心を持ちながら見続けることになります。
それでも僕は無責任な街と住人の中で一人責任を持とうとします。
壁の外にいる人間、壁の中にいる人間、壁を破ろうとする人間。
この三つの人格が本書には存在します。
そして、世界もきっとこの三つの人間が織り成していると思います。
最後に僕が残ったのは、夢読みの助手である女の子の心を見つけたいと思ったからでした。彼女を置いて行きたくないと思ったからです。
しかし、彼女には心がないので森で二人で暮らすことは出来ません。
もし彼女と二人で森で暮らしたいという気持ちで残ったなら、それは弱いものに押し付け壁の中で暮らす人と大差はないと思います。
だけど、僕にとって壁は守ってくれる外壁ではなく打ち破るべき壁なのです。
これからの僕は彼女の心を見つけるための冒険に出ることとなるでしょう。
そして、現実世界の僕は冷凍保存され、いつか博士が作った世界から戻ってくると思います。
そのときに色んなことがきちんと廻り始めるのではないかな、と思います。
作中に銀座線や外苑前駅が出てきますが現実感が全くありません。そういうところがとても優しいと思います。