≪内容≫
肉親の失踪、理不尽な死別、名前の忘却……。大切なものを突然に奪われた人々が、都会の片隅で迷い込んだのは、偶然と驚きにみちた世界だった。孤独なピアノ調律師の心に兆した微かな光の行方を追う「偶然の旅人」。サーファーの息子を喪くした母の人生を描く「ハナレイ・ベイ」など、見慣れた世界の一瞬の盲点にかき消えたものたちの不可思議な運命を辿る5つの物語。
この作品で強く感じたのはあるものでやっていくしかない、という精神。
この諦めに似た受容体質が私にもあるようで、すごく好きな部分です。
今回は書評というより、読書が私にどのような効果をもたらしたか、という話になってしまいました。
自分として生まれ、自分として死ぬこと
彼女はこれから再びその名前とともに生活していくことになる。ものごとはうまく運ぶかもしれないし、運ばないかもしれない。しかしとにかくそれがほかならぬ彼女の名前でなり、ほかに名前はないのだ。
(品川猿)
いまさら何いってんだと思われてもしょうがないんですけど、村上作品ってミステリー要素というか謎がまずありますね。
なぜか不眠症になる、とか、なぜか名前を思い出せなくなる、とか、なぜか夢に小人が出てくる、とか。その謎が最後まで読者の手を引っ張っているのか・・・といまさら思いました。
私は村上作品の状況を受け入れるという体制が好きです。
決して自分から事を荒立てるでも、何かを成すでもなく、物事の成功に向かってあくせくするでもなく、問題解決に汗を流すわけでもない。
ただ、受け入れる。
それが善いことでも、悪いことでも。
そもそも何が善くて、何が悪いかってどうやって決められるのか。
人にはそれぞれ正義がある。
インチキが嫌いな人間はその場の雰囲気より正直であることを正義に思う。
反対に、人間関係を大事にしている人間は自分の気持ちより、その場の雰囲気を守ることを大切にしている。
人間関係の歪みのほとんどはこの違いだと個人的には思う。
どっちの思想が悪いとか善いとかは人によって違うと思う。
それなのに、人は自分の対岸にいる人間の意見を「大人気ない」とか「わがまま」「自己中」と斬り刻んだりする。
もちろん生きていくために、自分の価値観というものさしは必要です。
それを養うことが人生といっても過言ではないと思う。
だから、その価値観を盾にしてそぐわないものを斬っていくのも、ひとつの生き方である。
村上さんの作品はクールだと思う。誰かが動揺したり失敗したり追い詰められるという身に迫るような描写はあまりない。
微かに苛立ったり、何かが様子を変えていたり、予期せぬメッセージが現れることはあるけれど。
彼女にはわからない。彼女にわかるのは、何はともあれ自分がこの島を受け入れなくてはならないということだけだった。
(ハナレイ・ベイ)
私は正直なところ自分に対して価値を持っていません。
自分が生きた証とか、この世界で何ができるかとか、何が使命かとか、そういう大それたことを思えずに生きています。
なので「なるようにしかならないし、もしならなかったら死ぬだけだよ」っていう精神で生きています。だからといって危険な場所に行ったり行動を起こすことも無く、人畜無害な透明人間みたいなものだと思っています。
村上作品の主人公は受け入れる。
ただし、受け入れるためには受け入れるだけのスペースが必要なのです。
村上作品の主人公の退職は、受け入れるために何かを捨てなければいけない、ということを私に思い起こさせます。
「見た本数は問題ではない。何度も見返すべき作品というものがあって、それを見つけるために本数見る必要があるのだ」
淀川長治さんの言葉ですが、これは読書もそうだと思うのです。
年間何冊読むとか偉い人間は読書しているとか、そういうことがきっかけだとしても、他人軸で考えると何もかも消えてしまう可能性もあります。
人は誰かになりたくても、誰かになれるわけじゃない。
もしなれるとしたら、OOに憧れる自分、とかOOになろうとした自分、になると思う。
だから、私たちは誰しもがあるものでやっていくしかない。
人生というのは、そのあるものを磨いたり捨てたりしていく過程なのだと自分は思っています。
こだわらないというこだわり。