《内容》
シングルマザーのサチ(吉田羊)は、息子のタカシ(佐野玲於)がハワイのカウアイ島にあるハナレイ・ベイで亡くなったことを電話で知る。
サーフィン中に大きなサメに襲われて死んだという。
彼女は、彼が命を落としたハナレイ・ベイへ向かい、海辺近くの大きな木の下で読書をして過ごした。
毎年、この「行為」は続いた。同じ場所にチェアを置き、10年間。だが、彼女は決して海には近づかない。
ある日、サチは2人の若い日本人サーファーと出会う。
無邪気にサーフィンを楽しむ2人の若者に、19歳で亡くなった息子の姿を重ねていくサチ。
そんな時、2人から“ある話”を耳にする。「赤いサーフボードを持った、片脚の日本人サーファーがいる」と…。
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納得できないことをやり過ごしたり、自分に向けられた悪意や理不尽に向き合うのは泥臭く、そんなもんさと流すのが何となく大人なように思えるけれど、本作や多くの村上春樹作品で思うのは、そうやってやり過ごしたことは、ただ感情に蓋をしただけで無くなってはないのだ。
誰もがそれに向き合う必要があり、大きく言うなら向き合わずには生きられない。どこかのタイミングで必ず蓋は外れてしまう。
今回は、その感情を生んだのが人間ではなく自然だった。
自然を憎んだってしょうがない、逆に自然に対して怒るなんてクールじゃないし何にもならない。だけど、一度生まれた怒りは蓋の裏側で燻り続ける。
自分でさえどう扱っていいのかわからない怒りと向き合うために、主人公は毎年息子の命を奪った海と対峙する。
嫌い、だけど愛していた
主人公のサチは、一人息子のタカシの命を奪った海辺に毎年やってくる。
別に、タカシとは仲良くなかった。シャブ漬けの夫と離婚してたった一人で育ててきた一人息子。母一人、子一人だったが二人の会話は冷めきっていた。
息子の訃報を聞いても、島の人の心遣いも特にサチの感情を揺さぶらなかった。ただ起きた出来事を受け入れていた。聞き分けの良い人のように。
だが、サチは決して息子の手形だけは受け取らなかった。
ある年、サチはスーパーで二人の日本人サーファーと出会う。彼らは死んだ息子と同じくサーフィンをしにこの島にやってきた。
息子が亡くなったときと同じような年齢の二人をサチはなんとなく面倒見てしまう。そして二人に教えられたのだ。
いつも、サチの後ろに片足のサーファーがいて泳いでる自分たちを見ている・・・と。
手形なんて何の役に立つの?と聞くサチに、彼女は勲章より手形の方が何倍も価値があると答える。
もう会えないのだから、遺骨も何も意味なんてないじゃないと思っていたと思うのですが、手形はサチの感情を受け止める役目を持っていました。
どうしてサーフィンするの?
何が楽しいの?
そんなことさえ聞けなかった。ただ、欲しいというからサーフボードを買ってあげた。それだけだった。もう息子には会えない。叱ることもできない。
私は、サチが手形を受け取らなかったのは息子を探していたからなんじゃないかぁと思います。
毎年毎年、海辺で彼が海からひょこっと顔を出すのを待っていたんじゃないのかなぁって。
でももうすでに自分の近くにいるんだと教えられたから、だから手形を受け入れたんじゃないかな、と。息子の死を受け入れるための10年でもあったし、再会するための10年でもあったのかな、と思います。
息子に言えなかったこと、息子が受け取らなかったサンドイッチ、そういったものは生きている人の手に。そして、息子との再会はこれからも永遠に続くのでしょう。
クールすぎて、素直に行動してしまう人にはわかりづらいかもしれないですが、人に言えない苦しみや押し込められた悲しみは、本作が描くように誰にも知られなくてもいいのかもしれない。だけど、人とのコミュニケーションが気づかせてくれることはたくさんありますね。