≪内容≫
『殯の森』の河瀨直美監督による、奄美大島の豊かな自然を舞台に少年少女の恋を通して命の奇跡を描く人間ドラマ。旧暦8月、島を挙げて行われる8月踊りの満月の晩、高校生の界人は溺死体を発見する。その場から走り去った彼を、同級生の杏子が見ていた。
こういう映画って絶対、ほぼ99.9%メジャーにならないし、メジャーになったら世の中変わると思う。ほとんどの人があえて見ないようにするか、無意識に見ないでいる世界だから、それが全国公開になったら軽くパニックになるんじゃないかなぁ・・・と思ったりする今日この頃。
だからこういう映画は響く人にはめっちゃ響くし、深く潜るためのきっかけになったりすると思う。
ピンとこない人は、それが間違ってるとかじゃなくて、たぶんタイミングが違っただけのことで、理解できるから正しいとか、つまらないから読解力がないとか、そういう問題の内容ではなく、人生の中の一瞬、よくいうタイミングが合ったか合わなかったかってだけのことに思います。
生は死、入口は出口
両親の離婚をきっかけに母方の故郷にやってきた界人と島の娘の杏子。界人の母親は一人で息子を育てるために働きに出ており、杏子の母親は神様でありながら死期が近付いていた。
二人は幼いながらに、今までの人生が変わっていくことを敏感に感じ取る。「2つ目の窓」とは、界人にとっては出口の発見であり、杏子にとっては死との出会いである。
二人は同じ時期に自分が持っているものと正反対のものを知る。
島で育った杏子は、海と仲良しだった。
そんな海に浮かんだ溺死死体。溺死死体が見つかっても、遊ぶことは禁止しない先生と、海に入る杏子。界人だけが海を怖がっていた。
恐らく、若さだけではなく誰もが、得体の知れないものや実態の分からないもの、容のないものに触れるのを怖がると思う。
しかし、私たちが生きていることも生まれたことも、考えてみれば得体の知れないことで、実態の分からないもので、何一つ理由もなんも分からないのである。
とりあえず生まれたからとりあえず生きてるだけ。
そういう風に思ってる内は、おそらく「生」と「入口」だけがあるのだ。生まれてきたという「生」と、生きるための情報や感情が入るための「入口」が。
そこに降ってきたのが「溺死死体」という「死」だった。
加えて、杏子は母親という一番近しい人間がどう生きてどう死んでいくのかを見守る役となった。
界人は外界からくるもので入口までパンパンに膨らんで爆発寸前になり、自ら出口を探し当てなければいけない時期を迎えていた。
人の生死に触れた杏子はもっと人間にコミットして潜水していくのに対して、界人はもうこれ以上自分の中に何も入れられない状態なので海も杏子も母親も全てを拒否せざるを得ない状態だった。
受け入れるためには「出口」を見つけることが必要不可欠だったのです。
本作は高校生という若くて多感な少年少女がどうやって「もう一つの視点」と出会い変容していくのか、ということが描かれています。
この「もう一つの視点」が厄介なのは、自分以外の視点が入ってくるということは、必ず自分のどこかが知らなかったときとは変わってしまうからです。
それが怖いのは、自分のことなのに、自分のどこが変わったのか自分で把握できないこと。それが自然なのだけど、(だって自分が自分の意味って不明だから)決して万人に受け入れられることではないのは恐ろしいことだから。