≪内容≫
原作:貴志祐介×監督:三池崇史×主演:伊藤英明。最強の顔合わせで贈る、禁断の最狂エンターテイメント!蓮実聖司は、生徒から“ハスミン”という愛称で呼ばれ、絶大な人気を誇る高校教師。学校やPTAの評価も高く、いわば「教師の鑑」とも呼べる存在だったが、それはすべて仮面に過ぎなかった。彼は他人への共感能力をまったく持ち合わせていない、生まれながらのサイコパス(反社会性人格障害)だった…。R15+
これ二回目なんですが、二回目だとなかなか冷静に見れて面白かったです。日本のサスペンスってびっくりするほどクールでよほど怖いわ!って思うこと多々ありますが、慣れ親しんだ邦画なので、こんな虐殺映画でも山田孝之のシーンでクスっとしちゃう。
さて、今回は一回目鑑賞のときに謎だったラストシーンがしっくりきたのでそこらへん書いていきたいとおもいます!
なぜハスミンは人を殺し続けるのか
まあもうパッケージから先生が生徒をぶち殺しまくるということはバレまくっているので、これはもうハスミンが「チーッチッチッ♪」と言いながら迫ってくる恐怖となぜ信頼していた先生に殺されなければならないのかという恐怖に素直に身を任せる映画ですね。
んで、なんでハスミンが生徒達(先生含む)を殺しまくったかというと、それが「使命」だからだったのでは?と思い始めました。これ、原作の方だとハスミンが少年時代に殺せなかった少女が出てくるので映画版とは解釈が異なるんですが、映画版で感じたのは、ハスミンにとって殺しは楽しみではなく「やらねばならない自らの使命」という感じがしたのです。
そう考えると色々つじつまが合うんですよね。殺しながらも夢でうなされたり、「俺は楽しみでやってるんと違う!」とかいってかつての同僚を燃やすシーンとか。
恐らくハスミンには「欲望」がなかったんじゃないかな、と思うのです。だから、言いよってくる女生徒を拒むことはしない。だけど、拒まないだけで求めているわけでもない。でも人は何かを求めずには生きていられない生き物だから、ハスミンの中で自分はオーディンの意志を継ぐ者、もしくはフギンとムギンとともに世界を旅するものと自分を設定づけたのではないかと思うのです。
それからのハスミンの世界には二羽のカラスや一組のカップルがフギンとムギンとして登場する。そうすればハスミンの行いの責任はオーディンが取ってくれるというわけです。
で、そもそもなんでこんなことになるかというと、単純に世界がつまらないからなのかな?と思うのです。世界というべきが社会というべきか時代なのか・・・とにかくつまらないんじゃないかな、と。
この世界に不満を持ったり何かしらの楽しみを持ったり人を好きになれるならきっとつまらなくてもそれは深刻な問題ではない。しかし、何一つ楽しいこともないとなると深刻な問題へと発展するのではないでしょうか。
変な言い方ですが、殺しっていうのは生きるか死ぬかの究極の二択でありグレーゾーンはありません。更にその行為の影響力は計りしれず、楽しくないにしても反響はあまりに大きい。
だから楽しくはないけれど、それを義務付けなければ自分が自分としてこの世にいられないと思ったのではないかな・・・・と思ったりしました。
理由がない、というより凡人に理解できる理由がない、と言えばいいのか、社会が作った「理由」という言葉には治まらない何かがあるのかもしれない。