《内容》
草は刈らねばならない。そこに埋もれているもは、納屋だけではないから―。長崎の島に暮らし、時に海から来る者を受け入れてきた一族の、歴史と記憶の物語。第162回芥川賞受賞作。
納屋と言ったら村上春樹。
村上春樹の方は納屋を焼き無き者にする男が登場するのに対して本書は
「なぜ誰も使わない納屋の草を刈るの?」という納屋を守り続ける話である。
ひっさびさにTHE芥川賞みたいな小説に出会って、読書欲がむくむく湧き出てきました。映画も人との会話も好きだけど、やっぱ活字が好きだわ・・・としみじみ感じました。
時を刻む家
一体どうして二十年以上も前に打ち棄てられてからというもの、誰も使う者もないまま荒れるに任せていた納屋の周りに生える草を刈らねばならないのか、大村奈美には皆目分からなかった。
連休に職場の福岡から実家の長崎のとある島にやってきた奈美は
「もう納屋なんか誰も使ってないんだし、草ぼーぼーでもよくない?みっともなくたって誰かがゴミ捨てたって誰も使わないんだから毎年律義に草刈りする必要どこにあんの?」
と草刈りの要請に不満たらたらであった。
家族はみな「まぁまぁいいじゃん」「代々そうやってきたからさ」と奈美の質問をあっさりに交わし着々と草刈り場へと奈美を乗せて車は走る。
奈美も文句は言うが草刈り要請に応じ、すでに車中の中にいることからも自分の意志で参加していることは認めていた。だが、ただその理由を知りたかったのだ。
実家に帰り、近況の報告などをしているうちに祖母や祖父の時代の話になり、奈美の家の歴史が語られていく。
それはまるで年に一度、一族が集合し、それぞれの近況や過去に思いを馳せるお墓参りに似ていた。そしてその土地の歴史さえ掘り返し小説は進んでいく。
納屋も、あと何度草を刈りに来るのだろうか?そして奈美が頭の中で見ているもの、もっとも時の流れを示す眺めこそ、誰も来る者がなくなり、草の中に埋もれた納屋だった。
草刈りや他の使われなくなった家の掃除が終わった奈美は仕事のことを考える。
週明けには仕事の厄介な後始末をやらなければならないらしい。だが、それは脳裏をかすめただけですぐに草に埋もれた納屋や、その周りにいる家族たちが奈美の脳内を占領する。
そういえば、私たちも年取ったな~
結婚したら草刈りに来れるかなぁ、ねーちゃんやにーちゃんもいつまで元気でいるだろう?もし誰もここに来れなくなったら、この納屋たちは朽ち果ててしまうのだろうか・・・
そんなことを思った奈美は草に覆われた納屋を見る。しかしすぐに家族の「草を刈る」という言葉がよみがえってきて、またそこにはちゃんと奈美もいるのであった。
理屈ではなく”当たり前のこと”として、刻まれている「草刈り」がこの先もずっとずっと続いていくことを奈美はそのとき体感したのだった。
生きていると、なんでもかんでも口で説明できるわけではなくて
「なんとなくそんな気がする」
みたいな、意味わからんことが結構ある。(私は)
でも、そういうことを言うと「スピリチュアルw」とか、「論理的に話せない人」とかいう悲しい評価を受けることが多々ある・・・ので話さなくなるのが大半の人の通る道だと思うのだが、そういうときこそ文学である。
最初の奈美の
「なんで必要ない納屋の草刈りしなきゃいけないの?無駄じゃん」
っていう正論から始まり、
草を刈りに来ることに疑問を感じつつも、疑問があってもなくても美穂たちは草を刈るのを止めることはなく、またそうすることを自分は知っていると、彼女は心の奥底では分かっていた。
理屈ではなく心に帰結するところを読者に魅せてくれる。
奈美は今後の家族の繁栄や自分の将来についてふと悩むんだけど、そういう時間も草刈りの時間もこの土地に刻まれて、生きとし生ける者へ受け継がれていく。
染みついた慣習は皮膚と同化してそれはもう”当たり前”になっている。そしてその”当たり前”が免疫となり他者の異なる”当たり前”を拒絶し我々を守っていることもあるだろう。
歴史なんて過去のことは関係ない、と思っていた学生時代だったけどそれは理屈では剝がせない。心の奥底で感じることこそ向き合うべき自分の運命と思った小説でした。