《内容》
ベストセラー作家・有吉佐和子の若き日の随筆と、マイノリティーの視点が光るルポルタージュ、歌人、小説家として生を燃焼した岡本かの子が夫と息子について書いた文章、書簡を中心に編む。
岡本太郎の母・岡本かの子さんの小説を読みたいとずっと思ってたのですが、先にエッセイから読んでみます。
なぜ興味を持ったかというと、太郎氏の著書にこう書かれていたからだ。
母はさまざまの悩みや愚痴、社会的な憤懣、あらゆることを一人前の大人に話すように、めんめんと打ち明け、投げかけて来た。人一倍多感な、悩みの多い母だったから、ぼくはそれを聞きながら、純粋なものに対する世の非情や残酷に、魂の冷える思いで拳を握りしめた。
そのように精神的には対等に激しくぶつかって来たが、いわゆる母親らしく面倒をみたり、べたべたに可愛がるということはまったくなかった。
(中略)
いくら泣きわめいても、知らん顔で背を向けて本を読んだり、字を書いたりしている。
(自分の中に毒を持て/岡本太郎)
太郎氏に負けず劣らずの個性的な方だろうな・・・と思って読んだんですが、息子への手紙にはかなり重い愛が書かれていた。太郎氏の言う通り、子供への手紙と言うより年下の恋人への手紙というような熱烈さであった。
有吉さんは名前だけ知っていたので初めて文章を読んだのですが、村上春樹のエッセイに通じるシュールな面白さがあった。村上春樹が走りながら悪態をつくように有吉さんもニューギニアの山登りでの心理描写はかなり面白かったです。
作品の源は怒りであり、繊細な人は常に怒りを持っている
女というものには、足の指ひとつにさえ日頃は遠慮と言う鉄環が嵌められて居るのである。
(跣足礼讃)
今日は理論の多い時代だ。物をいえば引っかかりの多い時代だ。そこで無言は却って重要な表現形式となる。純粋な気持は却って無言で静かに行動で運ぶべきである。私たちは今日の生活方法を人形に学ぶべきものが多々あるように思う。
(生活の方法を人形に学ぶ)
子供の目から見ても"人一倍多感な、悩みの多い母だった"とあるのだから、大人の中ではずば抜けて繊細だったんじゃないかな、と思います。
それが文章の節々に感じられます。
引用した二つの文章は、ほんのりとした"怒り"が見える。決して口にしたり面と向かって誰かに抗議することもないけれど、自分の中で確かに燃え続けている"憤り"。
"純粋な気持は却って無言で静かに行動で運ぶべきである。"
とは私もよくよく思ってることなのですが、考えてみればよく喋る人で小説家だったりクリエイターな人をあまり知らないです。芸能人や華やかなコミュニケーションの世界はよく喋る人の舞台と言う感じですが、作品を生み出すというのは誰にも言えない"怒り"を持ち続けている人間だからこそできることなのかな、と思いました。
パリに行った太郎を思う親心も繊細です。
えらくなんかならなくても宜い、と私情では思う。しかし、やっぱりえらくなるといいと思う。えらくならしてやり度いとおもう。えらくなくてはおいしいものもたべられないし、つまらぬ奴にはいばられるし、こんな世の中、えらくならなくても宜いような世の中だからどうせつまらない世の中だからえらくなって暮す方がいいと思う。
えらくなったらこんなにいい思いができる!とか親として鼻高々!とかじゃなくて「どっちでもいいが、どちらかというとえらくなった方がいいのでは?」みたいな友達的な距離感と「でも、えらくならせてあげたい。できるなら子供には幸せになってほしい」という親心。
どっちか一つの気持ちだけなら迷わないのに。あいまいな人っていろんな人の立場に立って考えられるんだなって思うと同時に時に辛いこともあるだろうな、と思う最近です。
息子の太郎が「芸術は爆発だ!」と外の世界に挑戦していくのに対し、内的世界の中でひっそりと美しい世界を描いた岡本かの子氏。久しぶりに「繊細」を文章から感じました。