深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

武曲/藤沢周~本当に真剣に動いてくれるのは、俺らみたいなラブ&ピースだけは手放さずに、個人としてマジで生きてる者らじゃね??~

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≪内容≫

羽田融はヒップホップに夢中な北鎌倉学院高校二年生。矢田部研吾はアルコール依存症で失職、今は警備員をしながら同校剣道部のコーチを務める。友人に道場に引っ張られ、渋々竹刀を握った融の姿に、研吾は「殺人刀」の遣い手と懼れられた父・将造と同じ天性の剣士を見た。剣豪小説の新時代を切り拓いた傑作。

 

私の大好きな綾野剛が主演と聞いて♡

武曲 MUKOKU

武曲 MUKOKU

  • 発売日: 2018/01/06
  • メディア: Prime Video
 

「武曲」の記事を読む。

 

かなり熱い一作です。

 

その剣は何の為に振り下ろされる?

ぶっちゃけ現代において剣道は必要ありません。

戦国の世でもないし、斬って斬られての時代ではない。

廃刀令は銃刀法違反となり、街中で絡まれたら柔道や空手の方が役に立つ。

なのになぜ剣を振るう。

その剣は何の為に、誰の為に。

人を殺してはいけない。傷つけてはいけない。

これは剣道だ。試合であって殺し合いではない。

じゃあ殺すのは自分か、殺されるのは相手か。

 

 主人公・矢田部研吾父は殺人刀の剣士。父は殺すことこそ本当の剣道だと言うが、研吾は争いを止めるのが武と思っている。

 親子でありながら絶望的なまでに違う剣筋は父を植物状態にし、研吾をアルコール中毒に陥れた。

 

おまえの剣道は何だッ?それで剣道か、研吾?竹刀なんぞに甘んじているから、本気の気剣体の一本がない。相手を殺す。相手に殺される。真剣勝負からしか、剣道は生まれない。せめて防具を捨てろ。せめて木剣で相手を叩き殺せッ。

 

 

何が「武」だ。戈を止めるのが、武だろう?争いを止めるのが「武」じゃないのか?この平和な時代にもかかわらず、剣に取り憑かれ、勝つことだけに執着する男の姿は、最も脆く、弱く、情けないものに見えた。そんな男が大嫌いだったのだ。

 

 

その剣で斬れるもの

自らの手に持った剣でしか斬れないもの。

それは・・・

 

そうだ、己だ。自分だ。その己という、憎しみやら悲しみやら、うじゃうじゃとしたもんを抱えている己自体を斬る。己を活かすも殺すも、この己次第で、まずはその己を徹底的に否定する。これが、殺人刀。そして、自由になったところで、己を活かすのが、活人剣

 

 

 弱い自分。

 

 私という個人と国家社会

剣道一級試験を受けることになった天性の剣士・融(とおる)

筆記試験の模範解答にどうにも納得出来ない。

その内容とは

ー剣道を正しく真剣に学び、心身を錬磨して旺盛なる気力を養い、剣道の特性を通じて礼節をとうとび、信義を重んじ誠を尽くして常に自己の修養に努め、以って国家社会を愛して、広く人類の平和繁栄に寄与せんとするものである。

 

納得しなくても流していれば、その時間は過ぎる。スルーさせておけば、後で好きなことができるじゃん。それくらい我慢できなくて、どうすんだよ、という具合に。(省略)もちろん、自分は日本人で、日本を嫌いなわけがない。だけど、国家という言われ方をすると、よく分からない抽象体に絡め取られるような・・・。なぜ剣道と国家が結び付けられるのか、ちょっと暴力的なんじゃね?と思うわけだ。もっと正確に違和感の気持ち悪さを探れば、自分がラップをやっている意味みたいなものが、ぺしゃんこにされる気分といえばいいのか・・・。

 

どーにも納得いかない融は白川という友人に疑問を問いかけるが「このまま覚えて書けばいいんだよ」とあしらわれる。

全てに納得を求めれば一歩進むごとにラスボスと戦うほどに消耗するし進めない。

だけど自分の中の譲れない部分は絶対に流してはいけない。

これは成り行きで剣道を始めた融が実は一番真摯に向き合っているということである。

ラッパーの友達に相談すると全く反対の答えが返ってきた・・・。

 

・・・俺、羽田がこのまま書くとしたら・・・・、羽田と絶交だわ

この・・・国家社会ってやつ?寄与ってやつ?俺は国とか社会とか役に立つ人材?みたいな貧しさは、嫌だ 

 

国とか社会とか役に立つ人材みたいな綺麗な言葉で自分を誤魔化すんじゃねーぞ!!!

そんな自分から逃げ出すようなやつに魂揺さぶるようなリリックは紡げねぇし、そんなチキン野郎なんか友達じゃねー!!!!!

ってことですね。

 

 この言葉で一緒にいた花沢も融も自然に笑顔になっちゃってます。

 別に、この理念が脅迫じみているとかおかしいとか言うわけではなくて、この言葉の意味、自分にとっての「国家社会を愛する」とはどういうことなのか。「人類の繁栄に寄与せんとする」とは自分にとってどうゆう行動の先に生まれるのか。わからないなら「わからない」と考え中なら「考えてるんだ」と白川から本当の言葉、白川の温度を感じる言葉が欲しいだけです。

 

周りには鞭を唸らせる者、ねずみ花火を投げる者、四股を踏む者、機関銃で掃射する者らが好き勝手やっている。こいつらが間違った妄想の「国家社会」を愛し、国のためだけの平和繁栄とやらいう詐術に寄与しようと殺到する様を想像すると、ゾッとする。とんでもない戦争や大災害が起きたら、ヒトラーみたいな奴が現れるんじゃないか。本当に真剣に動いてくれるのは、俺らみたいなラブ&ピースだけは手放さずに、個人としてマジで生きてる者らじゃね?

 

生きるって個人の戦いです。

他人の視線も思想も補助ツールでしかありません。

個人としてマジで生きること。

起こりうる全ての出来事はその結果でしかありません。

就活が上手くいかない、婚活が上手くいかない・・・ちゃんと自分の言葉で話せているか。自分はどういう人間でどんな事をしたいのか、どんな思想を持っているのか。それを他人にちゃんと伝えられているか。自分のマジを相手にぶつけているか。

経験値とは経験したという事実だけでは得られません。

経験の中で自分から掴み取るもの。

言葉を活かすも殺すも自分次第です。

 

我上位なり

強さとは何か。

 

おまえは勝とう勝とう、斬ろう斬ろうとした上での我上位なり、だ。これでは絶対駄目だ。しばらく上手く立ち合いができたとしても、いずれは破綻するものなんだ。じゃあ、どうするか。もはや先に死ぬということだろう。殺される、斬られる、というのを100パーセント受け入れた上で、対峙する。相手はもうどうにもならんよ。打つ手がない。だから我上位なんだ。 

 

強さとは受け入れること。

あるがままを受け入れること。自分は負けるわけがない、勝てるわけがない、絶対に勝てるはず、負けてしまうかもしれない・・・それが自分で自分を縛りつける。

自由に憧れるなら自由になればいいのだ。

自由になれない理由は常に自分で自分を縛っているから。

 

矢を放つ時、ここだと思ってタイミングよく射る射手はいないそうだ。ずっと待つんだと。完全に自分が的になりきるまでだ

的が近づいて自分と重なり、自分自身そのものが的になれば、自分の中心を見つめればいいだけ。放たれた矢は自然に的に通ることになる・・・ 

 

他人を受け入れられるのは自分と向き合っている人だけです。

 

自分という軸が時には樹木の様に、時には風に揺れる葦の様に変化自在、あるがまま。

ありのまま、それ以上もそれ以下もない事実を受け入れる。

全てはそこから始まる。

 

この融と矢田部の武曲は私の心を深く揺さぶりました。

誰かの本気って誰かに火をつけるんですよね。架空の人物だろうが、遠い歴史の人物だろうが。私はなんとなくじゃなく個人として生きること、自分の思想で話すこと、選ぶことをしたいって思って生きているのですごく共感出来たし面白かったです。

武曲 (文春文庫)

武曲 (文春文庫)

  • 作者:藤沢 周
  • 発売日: 2015/03/10
  • メディア: 文庫
 

そして猛烈に剣道やりたくなりました。笑