≪内容≫
ひき逃げで最愛の妻を失い復讐を誓う男と非道な犯人の生き様を描く赤堀雅秋監督作。小さな鉄工所を営む中村健一は、ひき逃げで妻を亡くして以来、虚無的な日々を過ごしていた。犯人・木島が刑期を終えた5回目の命日の夜、中村と木島はついに対峙する。
これ一回目観たときは言葉が出なかった。それは「凶悪」でも感じたことだけど、怖すぎると言葉が出なくなってしまうんだよな。
悪意が変えるもの
悪に触れると人は否が応でも変ってしまう。悪意に触れた部分からどんどん化膿はっ進んでいく。そうして壊死してしまった部分を切り落とさなければ、悪意の感染は妨げられず自分自身も壊れてしまうだろう。
その部分を切り落とすため、剣を持つ決意をしたのが「その夜の侍」なのではないか、と私は思う。
生きていく中で、悪意に出会うか出会わないかは、わりと強いターニングポイントになり、それを「運命」なり「宿命」なりと人は呼んでいる気がする。
本作の侍こと主人公・中村は、極悪非道な木島(山田孝之)に妻をひき逃げされた。妻は死に、木島は5年ほどの刑期で社会復帰していた。
復帰しても木島の態度は変わらず、出会った警備員を強姦したり、自分の過去を話したと言っておじさんに灯油ぶっかけたり、弁護士を山に埋めようとしたりやりたい放題で何も反省などしていなかった。
中村は、木島を殺すカウントダウンを始める。木島はカウントダウンの手紙を受け取り、当日に二人は雨の中で対峙することとなる。
人の何が怖いって、やった行いではなくて、やった心理だと思うのですよ。だって同じ殺人だって理由がある場合、その理由が想像を絶するものだったりすると「殺されて当然じゃないか」と思ったりすることってあるじゃないですか。映画とか小説だと特に。
謝罪が必要なのは、許されない行為に対してはもちろんだけど、それ以上にお互いが理解しあえる生き物であるということを確認することで必要以上の「悪意」に触れないようにするためな気がするんです。
この映画ほど怖い内容じゃなくても、日常でやさしくない人を見たり、冷たい言葉を聞くと自分の事じゃなくてもドキっとしたり嫌な気持ちになったり悲しくなったりすることってありませんか?
「人は変えられない」と言うけれど、悪意に出会ったとき、この映画の木島みたいに悪意の擬人化みたいな人間に出会ったとき、灯油かけられたおじさんも強姦された警備員も木島とその後関係を続けちゃうように、悪意には人を強制的に変容させる力がある。
だからきっとドキっとするんだと思う。もしもそれにあてられたら、自分が変わらないとは言い切れない弱さが人間にはあるから。
その弱さを断ち切る舞台としての夜、そして断ち切る精神の象徴が侍。これは被害者である中村が加害者を憎む思いを断ち切るまでのお話で、木島のような人間を変えよう、変えられないなら殺そう、という話ではない。
正直人にすすめようとは思わないけれど、こういう生き方を知る、もしくはこういう生き方を描いた人がいるということを知るだけで、自己防衛の一つとなる気がする。