≪内容≫
聖書と並ぶ古典中の古典、ギリシア神話は、世界の思想、芸術、文芸に多大の影響を及ぼしている。本書では、多彩豊富な物語の膨大な枝葉を巧みに整理し、著名なエピソードを取りあげてわかりやすく解説する。エロス、オイディプス、パンドラ、アンドロメダ……神話中のヒーローとヒロインの運命を、作家的想像力で興味深く語ったこの一冊で、あなたはもう“ギリシア神話通"。
ギリシア神話という言葉は知っていても中身は知らないな・・・。
闇のエウリュディケ
エウリュディケ(女)とオルペウス(男)の物語。
簡単に内容を書くと、エウリュディケが死んでしまいオルペウスは悲しみの底に落とされた。エウリュディケの死を受け入れられないオルペウスは冥府の王ハデスに妻エウリュディケを地上に戻してくれるように願い出る。
ハデスはオルペウスの歌に大いに心を動かされていたから、特別な条件付きでその願いを承諾する。オルペウスはエウリュディケの手を引いて冥府の道を引き返す。
しかし、だんだん不安になってきたオルペウスは
太陽の光が出るまで決してふり返ってはいけない。
という掟を破り、ふり返ってしまう。
その瞬間、エウリュディケは永遠に失われてしまうのだった。
という話です。
ちなみにエウリュディケは妖精で、オルペウスは竪琴の名手であり、巧みな歌い手でもあった。
エウリュディケ=ユリディス、オルペウス=オルフェという別名もあり。
日本の神話でもイザナギが同じ誤りを犯している。
最愛の妻イザナミを失ったイザナギは黄泉の国までイザナミを取り戻しに行く。
「少しお待ち下さい。でも、待っているあいだにけっしてこの部屋の中を見てはいけませんよ」
と、言われたにもかかわらず、イザナギは櫛の歯に火をともして死者のすみかを覗いてしまう。
そこに見たものは、醜い死者の相を備えたイザナミであった。禁を犯したために妻を地上に迎え戻すことができなかったのはオルペウスと同様である。
このくだりには、生きている者はけっして死者の実相を見てはならない、というタブーが感じられる。そして、さらに言えば、死んだ者を生き返らせる道は、実相を知ることではなく、暗黒の中でイマジネーションを働かせることにこそある、といった教訓を汲み取ることができるだろう。
私は「鶴の恩返し」にもなんだか同じようなものを感じます。
見るなのタブーってやつです。
イザナギとオルペウスは生者と死者、鶴の恩返しは動物と人間という、住む世界が違う者同士です。
人は分かり合いたいと思う生き者だと思いますが、分かり合えない部分まで貪欲に知ろうとすると、望んだ結果は得られないのかもしれません。
禁じられた扉は禁じられた理由があり、禁じられていることに意味があるとしたら。
というかそもそも、私たちは相手に対して全てを知ることはできなくて、大部分が想像だと思う。
想像を越えて全てを知ろうとすると、その先は破滅しかない。と私は思う。
なんでかっていうと、全てを知ろうとする行為は結局どんなに愛している人間とだって他人でしかないんだという事実が深まるだけだから。
実体で介入してはならない部分を補うために、人間に与えられた力が想像力。
私は想像力というのが人間にとって最大にして最強の武器だと思う。
パンドラの壺
壺の中のものは、あらかた飛び散り、その底にたった一つのものが残っただけだった。
パンドラの壺から飛び散ったものは、病気、悪意、戦争、嫉妬、災害、暴力など、ありとあらゆる"悪"であった。
かろうじて壺の底に取りとめたのは"希望"であった。
見るなのタブーその弐。
パンドラは大神ゼウスによって壺と一緒にプロメテウス・エピメテウス兄弟のもとへやってきた。
パンドラはよくわかんないけど、ゼウスに壺の中身は絶対開けちゃいけないよと言われている。
しかしエピメテウスと仲良くなったパンドラはある日壺の中身が気になって開けてしまうのだった。
そしてその日まで邪悪なものがなく、穏やかで平和だって世界には病気、悪意、戦争、嫉妬、災害、暴力などが蔓延することになるのだった。
この話は"見るなのタブー"よりかは、"贈り物には気をつけろ"という教訓が強い。
パンドラと壺はゼウスからの贈り物であった。
ギリシア神話に限らず、民話伝説のたぐいを読んでいると、あまり"結構"な贈り物にはめぐりあわない。たいてい、そのプレゼントを受け取ったために、ろくでもない事件が持ち上がる。
これは、やはり、人から物をもらうのはだれにとってもうれしいことにちがいはないけれど、だが、しかし、ご用心、うれしいことだけによく気をつけなさい、という昔の人々の教訓だったのだろう。
古今東西、贈り物には、なにやらきなくさい、黒い紐がついていることが多いものらしい。
うまい話にゃ気をつけろ!!
ですね!
古代ギリシア人の豊かさ
ギリシャと言ったらパルテノン神殿が一番に出てきます。カッコイイ!
古代ギリシア人は人間を、その本能、能力、衝動のありのままで受入れ、世界の基本、中心と考えていた。
「人間は万物の尺度なり」(プロタゴラス)は彼らの人間観を要約している。彼らの神人同一型の宗教も、のちに述べるギリシア神話の「人間的」なことも、そこに由来する。
戦争を中断してオリュンピア競技をしたり、野外の大劇場でアイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスの悲劇や、アリストパネスの喜劇を楽しんでいた彼らは、経済的には貧しくとも、精神的な豊かさを求め、人間らしい生活を重視していたのだろう。
ぬけるように青い空、紺青の海、乾いた土、たわわに実ったオリーブ、そして白い大理石のパルテノン神殿をいただくアクロポロスの丘、そのふもとに広がるディオニュソス大野外劇場、これらを背景に古代ギリシア人は人間としての理想を夢みていた。
解説より。
人間としての理想ってなんだろう。
今は毎年、毎月、毎日、毎秒と娯楽が生まれ続けていて、家の中にじっとしているだけでも楽しめる。
私なんかパソコンと読書だけで楽しめてしまうし、スマホのゲームだって色んなものがあるし、VRっていう一人で楽しめる遊びも出てきた。
それは全然悪いことじゃない。進化だと思う。
だけど、ぬけるように青い空、紺青の海、乾いた土、たわわに実ったオリーブ、そして白い大理石のパルテノン神殿をいただくアクロポロスの丘、そのふもとに広がるディオニュソス大野外劇場・・・に猛烈に憧れを感じる私がいます。
現代において神話を振り返ることは、そういう豊かさを取り戻す行為のような気がしました。
今だって楽しく生きているけれど、今だけを見ていたら見えない楽しみもあるし、懐かしがってばかりいたら見えない今がある。
私がどんなに望んでも、古代ギリシアに行くことはできない。
そこは想像と、現代のギリシャを見ることで感じることができるはず。
結局何したって死という抗えないゴールがあるわけなんですが、それは悲しいことじゃなくって、そのゴールまでどうやって楽しもうか、何を感じようか、ってことを自分で選択しながら、そして理想や憧れを何に見出して、どこに行こうかってことこそが人生なんだろうなぁって思います。
豊かに生きていきたい。