
≪内容≫
いつから私はひとりでいる時、こんなに眠るようになったのだろう…。毎日家で眠りながら恋人の電話を待つ寺子(安藤サクラ)と、永遠に眠り続ける妻を持つ恋人の岩永(井浦 新)。そんな中、男たちに添い寝をしてあげる“添い寝屋”をしていた親友しおり(谷村美月)が死んだ。親友の死の衝撃と、不倫による不安と淋しさが身にせまり、寺子の眠りはどんどん深く長くなる…。
さて、 本作は不倫相手との逢瀬以外は眠り続ける主人公・寺子の生活を中心に眠りすぎると人は生きているのか死んでいるのか分からなくなる、というお話です。
眠り続ける理由
端的に言えば「眠いから」であって、なぜ眠いのかというと、現実世界に用がないから、と思います。大体の人って「眠いなー」という一瞬がありながら働いたり遊んだりしてると思うんですが、現実世界って起きてないと存在することができないんですよ。だから現実世界にいたいなら、眠くても起きなければならないわけです。
でも人間楽したい生き物だから、現実世界に何もやることがないと起きれない。だから、人は用事を作る。仕事なり家事なり遊びなり趣味なり。量は人それぞれだけど、皆それなりに予定を作るでしょう?
予定がないと不安になったり、あえて予定をいれずに社会からドロップアウトすることも前提に「予定」があるんです。
寺子のセリフで
やだ 気付かずに寝ていたわ
あたしもとうとうガタがきたかな
あなたからの電話では絶対に目を覚ましていたのに
っていう部分があるんですけど、これは寺子が現実世界に持つ唯一の予定が不倫相手・岩永との逢瀬だからです。
彼からの電話でも起きれなくなることは、より彼岸に近づいたことを意味します。
映画の中の彼女は最初から最後まで彼岸と此岸の中間にいます。彼女が、岩永の電話に気付けなかったことに苛立つのは、岩永を愛してるからじゃなくて、自分が死に近づいたことへの恐怖からだと思います。
なぜしおりは自殺したのか
じゃあ眠くならなければずっと現実世界に居続けられる=生きていられるのかというと、それは違う・・・というのがしおりのパターンです。
しおりは添い寝バイトという特殊なアルバイトを始めます。そこで彼女は自分の隣で眠っている人の夢を見るようになる。それは、彼女自身の夢を見れなくなるということになります。同時に二つの夢は見れない。ならば、一人のとき見ればいいのでは?と思うのですが、彼女は眠ることさえ出来なくなっていきます。
人の夢にアクセスする、ということは自分の人生でありながら常にわき役、もしくはエキストラの立ち位置を意味します。いつも誰かの夢の中に登場する実体のない女性。それが夢の中だけでなく現実世界に影響を及ぼしてくるのは、人が眠らなければ生きていけないことを意味しています。
人は此岸と彼岸を行き来している
この物語は三人の女性と一人の男がメインです。三人目のこの女性は、岩永の植物状態の妻。このシーンは限りなく彼岸です。
妻も寺子もまだ死んでいない。でも、生きてもいない、そんな状態です。
今すぐ駅に行きなさい。
そして求人雑誌を買いなさい。
彼女は寺子にそう助言する。
寺子もしおりも相当なお金を持ってるんですよ。
だから寺子は眠り続けられるし、しおりはバイトをやめたって全然生きていけたわけです。でも、それでも一人は死に、一人は死にそうになってる。
彼女達には圧倒的に欲望が欠けてる。
生活に困らないお金があっても、人は欲がなければ生きられない。お金が欲しい、ブランドバッグが欲しい、有名になりたい、家族を作りたい、好きなことして生きていたい、遊びたい、あれいいな、これいいな、あれも欲しい、これも欲しい・・・そういったものが此岸にいるために必要なものであり彼岸に持って行けないもの。
そして、彼岸だけじゃなく夢の世界にも持って行けないものでもあります。
我々は覚醒状態時には此岸に存在し、睡眠時には彼岸を彷徨っている、と私は思っています。色んな人間の記憶や潜在意識の中で容を持たずに漂ってる。自分の意識はあってもどこか客観的な視点で見てるように感じるのは、夢の中で肉体はないからだと思ってます。
我々は絶妙なバランスの上で生きていると思うのです。
彼岸と此岸とのバランス。シーソーの真ん中で常にバランスを取って生きていると思うのです。どちらかに偏れば死ぬか、死にものすっごい速さで近付く。
死神と共存する方法
だんだん、この岩永って死神なんじゃないかと思えてきた。
だって、自分の奥さんが植物状態で永遠の眠りについていて、愛人も眠りにとりつかれてるんだもん。死神というとファンタジーチックだから、エナジーバンパイアというのかな。
こいつは一見何もしてないんですよ。別に寺子を軟禁してるわけでもバイト禁止にしてるわけでもない。でも、言葉一つ一つが怖いんですよ。
最後の花火のシーンで如実に出てきます。
花火大会だから人がいっぱいいるのは当たり前です。でも、人の多さにたじろぐ岩永。ちょっと他のところ行こう、と言う岩永。うなぎは専門店じゃなきゃ嫌という岩永。
何気ない言葉だけど、ここで分かるのは彼が隔離された世界を好むということです。そして彼を愛して、彼のそばにいるためには自分も隔離された場所にいなければならないということです。
彼はそんなこと一言も言ってない。
でも感覚で分かる。この人がいたいのは隔離された場所であるから、自分が俗世を選んだら彼とは離れなければならない、ということが。
でも、寺子はバイトを始めたし、岩永とも別れない。
もしかしたら、岩永も俗世に出たいけれど出れずにいるだけなのかもしれない。別れたら寺子は生還出来るけど、岩永は生と死の境目に置き去りのままになってしまうかもしれない。
この映画に関しては精神状態が良好なときに限り見た方がいいと思う。気軽に見るには意味不明かもしれなくて、落ち込んでるときに見るとさらに落ち込むかもしれないから。比較的フラットな状態のときがいいです。
フグで毒にあたるみたいに、映画でもたまに毒に当たったりします。しかもホラーでもなんでもないこういう映画で。割と体力食うんだよな創作物。