≪内容≫
夫を運ぶのにちょうどいい大きさの箱はあるかしら?“小さな”夫との奇妙で幸福な日々。しかし、ある日…。たしかな手ごたえを持っていたはずの現実が、ふとあやうくなる瞬間を鮮やかに描き出す、待望の作品集。
吉田知子さんの本は二冊目。
これで吉田知子ワールドにハマったんですが、今回も不気味さMAX。
今回の読書で気付いたんですが、読み手って無条件に一人称で書かれていたらその主人公を信じますよね。だってその主人公が読み手のナビゲーターになるのだから。全く知らない世界に入るための儀式として、主人公を信じなければならない。
8編の紹介
箱の夫・・・箱に入るサイズの夫は、箱の中で転倒し赤ん坊に戻ってしまう。赤ん坊に戻ったとはいえ彼は妻の夫だったが、赤ん坊という肩書は彼の母親を呼び戻す。
母の友達・・・突然母の友達を名乗る女が訪ねてきた。しかし母と同年代には見えなかった。娘は母の帰りを待ちながら珍客の相手をする。
遺言状・・・偏屈な芸術家の付き人である女は、お手伝いがやってきたあと居場所を奪われ、密かな芸術家との約束も消えてしまった。
泳ぐ箪笥・・・夫が死んだあと、家の中から何もかもが近隣の人たちによって遺産分けのごとく持っていかれていく。
天気のいい日・・・自分の死体が新聞欄に載っていた。女は上機嫌で自分が死んだ場所に向かう。
恩珠・・・一度会っただけの異国の知り合いが父親を探していると訪ねてきた。しかたなしにその女に付き合って畜生の墓まで行く道のりで彼女はその光景が自分の脳内にすでにあることに気付く。
天・・・天井裏にいるナニモノかによって初めはその家の人々に、次は村人に不穏な雲行きが降りかかる。
水曜日・・・飼い馴らしてこき使ってやるつもりだった女中にいつの間にか自分が飼いならされていく。
この世界に確かなことなんて何もない
吉田知子の作品の特徴は、主人公が主人公になれないところなんだと気付きました。「お供え」では、主人が死んだらそこに妻が残されていても、妻の存在はないものとなってしまう。これは本作では「泳ぐ箪笥」でもっとダイレクトに語られています。
とにかく誰かがいて、自分はその人の付き人や娘や動物になってしまう。自分が主人になろうとしても人が離れてしまい、結局は誰かの付属品になる運命。
絶対に主人公になれない存在。
だからこそ「天気のいい日」では、死ぬことでやっと主人公になれたため、上機嫌なのではないでしょうか?
この作品の気持ち悪さは、「天」で比較的分かりやすく描かれている。
アマは天井があるかぎりどの家にも来る。いや、天井ではない。頭の上がすなわちアマだった。外を歩いてもアマがいる。
アマの機嫌を損ねると、村では事故が起こる。だから村人は頼まれなくてもお供えをし始めるのだ。その供物が腐り、村全体が腐臭に覆われる。
そう、別に神様がなんだろうが、悪魔がなんだろうがなんだっていいんです。
もっと言うと、自分が何者なのか、誰なのかなんてどうやって分かるというの?はたして自分は誰なの?という気持ち悪さが吉田知子の恐怖の土台だと思います。
とりあえず自分の不安を解消するための"何か"が欲しい。それは真実じゃなくてもかまわない。そしてそれを信じる数が増えれば増えるほど真実に変わる。
ときに、今いる自分は果たして最初から人間として生まれたんだっけ?どこかで自分が畜生であるという出生を忘れただけではなかったのか・・・?今あるものは、ほんとうに確かなのか?そんな恐怖をくれる本です。こわいっ