深夜図書

不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

アンナカレーニナ/トルストイ~生きるって地道の連続~

≪内容≫

青年将校ヴロンスキーと激しい恋に落ちた美貌の人妻アンナ。だが、夫カレーニンに二人の関係を正直に打ち明けてしまう。一方、地主貴族リョーヴィンのプロポーズを断った公爵令嬢キティは、ヴロンスキーに裏切られたことを知り、傷心のまま保養先のドイツに向かう。

 

 

 

年末年始から長編作品を読んでいるんですが、かなり頭が痛いです。

頭痛というか倦怠感というか、何か吸いとられた感というか・・・。

とはいえ、すごい充実感や会得感があります。

 

人生の中で毎日本を読んだって全ての作品を読むことはできません。それに読んだ全ての本が何かしらの感動や不快感などを与えてくれるわけではない。

大体10冊くらいが自分に残る本だと誰かが書いていた。(たぶん村上春樹さん)

 

トルストイの「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」は私の中に確実に残る気がする。こう気持ちになったのは砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない/桜庭一樹 と1973年のピンボール/村上春樹以来。

長いけれど何度も読み返したい本。

 

 

 

 

 

 

愛と理性

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本作はあまりに有名なのですが、私が知ったのは村上春樹さんの短編「眠り」から。「戦争と平和」も彼の作中に出てきて知りました。こうやって読者にさりげなく読書ガイドしてくれるようなサービス精神も好きなんですよね、村上さん。本人はそんなことは思ってもいないでしょうけど・・・。

 

それで、いざ読むぞ!って思って情報を調べていたら何やら愛に生きる女の話、不倫の話だというので、最近読んだRed/島本理生を思い出したりして、まあ「戦争と平和」よりは軽く読めそうだな、と思ったんですが・・・。

まあそんな一筋縄じゃいかないよねー!という作品でした。

 

というのも、タイトル「アンナ・カレーニナ」という割に主役はリョーヴィンという地主貴族なんじゃないか?と思うくらい、アンナの物語主体ではない。

「戦争と平和」でも複数の人物の物語で成り立っているので、一人の人間が見ている世界だけではなく、他の人間視点の世界も描き、対比させることで読者に作品の世界観を伝えているように思います。

私は三人称と一人称でどれだけ作品の世界観が変わるかとか、そこにどういう効果があるのか等そういうことは分からないし、今まで考えてもいなかったのですが、トルストイの作品を読んだことで、違いと、それぞれが持つ良さ見たいなものに気付いた気がします。

 

ゆえに、この作品はアンナ軸の物語だけでも成り立たないし、リョーヴィン軸の物語だけでも成り立たないように思いました。

この作品のテーマが「理性」ならば。

 

一般的に不倫というのは、理性を失い感情に走る行為と表されると思います。

アンナは愛を求め、リョーヴィンは愛を諦める。

アンナは理性に縛られ、リョーヴィンは理性から逃れる。

 

二人の真逆な生き方から見えてくるものがあります。

この本を読むとき、私は光文社の本作を読みましたが最後の読書ガイドを読む事もかなり重要です。というのも、時代の背景が分かっていないと読むのが難しいです。

 

アンナは一見すると、血も涙もない女のように映ります。

夫カレーニンだって無理くりアンナと結婚したようなものなのに、「あなたのことなんて大嫌い。怖い、憎いと思うだけです・・・。」とか言われます。

しかも自分は特に何もしていないのに。アンナが勝手に運命の出会いを経験して勝手に夫を嫌いになったので、カレーニンにとっては寝耳に水状態。

それでもアンナは自分の感情を抑えることが出来ない。

 

現代の感覚で言えば「子持ちの女が何言ってんだ!もう大人だろうが!」と思う気持ちが常識寄りなのではないかな?と思います。

でもそれは、私たちが自由に経験出来るからなんだと思います。

もちろん現代でだって、大人になってから本当の愛に出会う人もいるだろうけど、当時の貴族たちというのはほぼお見合い、ほぼ政略結婚なわけなので、そういう点でもリョーヴィンが初めから好きの気持ちを持って愛する女性と結婚したことと、アンナが仲人の言われるままに社会的強者の位置に立つ男性と結婚したという対比も重要な要素な気がします。

 

アンナ・・・愛のない結婚、金持ち、美貌有り、都会暮らし

リョーヴィン・・・愛ある結婚、裕福ではない、整った顔ではない、田舎暮らし

 

端から見たら華やかで素晴らしい人生のアンナと、地味で冴えないリョーヴィンの生活。

 

生きた時間の長さで幸せか不幸せかは決められないけれど、人生の意味、生まれた意味を「生きること」と考えてみるならば。

花のアンナと地のリョーヴィン。

大地が無ければ花は咲かない。

 

 

 

 

 

お菓子がなければ、汚いアイスクリームだってかまわない。

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もしもわたしが、ただあの人の愛撫だけを情熱的に求める愛人であるだけでなくて、何か別の者でもありえたらーでも、わたしは別の何かになれもしないし、なりたくもない。そしてわたしのこの欲望があの人の嫌悪をかきたて、あの人はわたしの憎しみをかきたてる。

 ほんと、アンナの心理描写がすごい。詳しい且つリアリティがすごい。

アンナはヴロンスキーに執着して、何でもかんでも彼の愛情を疑うきっかけにしてしまう。自分でも相手に浮気心がないことは分かってる。分かってるけどどうにもできない。

ヴロンスキーがほんとうに自分を愛してくれていると自分で実感できなければ、本人からどんなに愛の言葉を聞こうが、行動を見せつけられようが納得できない。

信じてる、でも納得ができない、不満は消えない。

 

ヴロンスキーからすれば「じゃあどうしろってんだよ!」ってことになっちゃいますけど、アンナの気持ちは理屈ではどうにもできないのだからしょうがない。

 

もうこうなると破滅しかない・・・と思うのは私だけでしょうか・・・。

アンナのような与えられる愛だけを糧にしてしまう人間に、何を言えば、どうすれば破滅を回避できるのか分からない。

 

ただ、こういう女性を見たことがある。

やりたいこともあるし、それだけの器量もありそうなのに、本人に情熱がないパターン。一応表向きに夢を語るけど、本当は愛されることで愛して生きていきたい人。この女性も結局当時の恋人とは別れてしまいました・・・。

 

アンナはカレーニンと離婚せずヴロンスキーと暮らしているわけなので、友人関係は絶縁状態です。もし離婚が成立してヴロンスキーと夫婦になったとしても、もう元のスケルトン(隠し事のない)な彼女には戻れない。ヴロンスキーの愛がそういう不安を見えなくさせていたのですが、彼の愛が薄まった途端、その常識、理性が彼女に戻ってきます。

そうね、わたしには不安がいっぱいあるし、それから逃れるために理性が与えられているんだから、つまり逃れるべきなんだ。

 アンナはヴロンスキーの愛があれば他には何もいらない!って感じで、色んな人を傷付けてヴロンスキーと一緒になるわけです。願いを叶えた。

なのに。

人間が感じる不安って大体自分で作ってる気がするんですよね。

あれが叶ったらこれも。これが叶ったらそれも。

そういう貪欲の象徴なのかな、アンナって。

愛を感じるときに理性は邪魔で、愛を感じられなくなったら理性が必要。

理性ってなんなんだ・・・!

 

 

 

 

 

理性と本能

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答えを与えてくれたのは、生きることそのものだった。つまり何が正しくて何が間違っているかというおれの認識の中に答えがあったのだ。その認識はおれが何かによって得たものではない。すべての人とともに授かったものだ。授かったというのも、自分ではどこからも手に入れたはずがないからだ。

 だって、おれがそういう認識をどこから得たというのだ?いったい理性の力によって、隣人は愛すべし、殺すべからず、という結論に至ったとでも言うのか?

おれは子供の頃そうしたことを人から言われて、喜んでそれを信じたのだ。なぜかと言えば、言われたことがすでに自分の心の中にあったからだ。では誰が教えてくれたのか?理性ではない。

理性が教えてくれるのは~と続くリョーヴィンの気付きのシーン。

 

だって、おれがそういう認識をどこから得たというのだ?いったい理性の力によって、隣人は愛すべし、殺すべからず、という結論に至ったとでも言うのか?

↑ここの部分、脳内にL'Arc~en~Ciel「いばらの涙」が流れてきました。

「天が~舞い~降り~て」ってところ。

 

リョーヴィンは平凡な生活の中にこそ答えがある、という結論に至った。

そもそもリョーヴィンの苦悩というのは「死」なんですね。

兄の死に遭遇してから死にとりつかれてしまったリョーヴィン。幸せな結婚生活の隙間に「死」がそっと姿を見せる。

人間は死んでしまうのに、なぜ生きるのだろう?おれが生まれた意味は?なんのために生きるのだ?

そういうことをもんもんと考えます。哲学。

そういうことを考えている内は答えが出ない。だけど、生活の中で畑に出て身体を動かしたり家族の問題に立ち会っているときは、答えはもちろん出ないけど、まず問題が出てこない。

 

リョーヴィンは妻キティの姉ドリーとその子供たちのワンシーンを思い出します。

子供たちが食器を壊したり、食べ物を粗末にしたことに対して母親が子供に説教をするのですが、子供たちは「だってその方が面白いじゃん!」という感じであまり響いてないんですね。

 

リョーヴィンはこの光景についてこう考察します。

彼らが信じられなかったのは、自分たちが享受しているものの規模が創造できなかったからであり、それゆえ、自分たちが壊そうとしていたものが、まさに生きていくうえでかけがえのないものだったということを、イメージできないからであった。

(中略)

「われわれも、つまりこのおれも、これと同じことをしているんじゃないだろうか。自然の力の意味や人間の生命の意味を理性によって見出そうとするなんて」

人間って成長するにつれて、過剰に欲しくなりますよね。

生きるために必要なのは一番は食べ物。食べ物と水。

それから雨風をしのげる家、一緒に生きていくための仲間、それらを維持するためのお金・・・。

 

そういうことを自分の力でやってるとまず哲学的思考には行かないんじゃないかと私は思います。哲学ってそもそも暇から生まれたものですし。

 

だから理性うんぬん考えちゃうくらい地から足が離れちゃうと危険なんだろうなぁ。ブランド物やキラキラした華やかな世界や空間、美味しい食べ物、他人からの羨望、他人からの承認、他人からの愛情ってどれも気持ちは満たしても腹は膨れないしね。

 

人々は社会で生きていくわけなので、誰と比べてどうかって世界でもあります。だから強制的に競争させられてるわけで、無意識に競争させちゃってるんだろうと思う。

生きるための競争は本能だけど、生きる以上の競争は理性だよな、と思う。

 

だから理性に走っちゃうとね、生きることから遠く離れるよね、というのがアンナの生き方でした。

じゃあなんで理性に、生きる以上の競争に走るかっていうと、生きるって地味なことだから。だってもし、生きること自体が地味なことじゃなかったら、わざわざ音楽を奏でたり豪華な服で自分を着飾ったり、贅沢しなくたって満足するはずじゃないですか。ライブとかクラブとか、そういう非日常が楽しいのは、日常が地味であればこそだと思うのです。

 

子どものころは、芸能人やお金持ちっていいな、毎日外食出来るんだろうな、美味しいもの食べてるんだろうな、毎日ハーゲンダッツ食べてもいいんだろうな、しかもクリスピーのヤツ。とか思って羨ましかったんですけど、大人になるとたまーーーのハーゲンダッツが最強だということに気付いたりする。

外食より家族との食事、おかんが作る蒟蒻のおかか煮みたいなふっつーのヤツが最強に美味しいことに気付く。

 

夜に仕事終わって、駅について、疲れたーと思ってコンビニのお弁当なりパンなり買う。

その米を作った人、買った人、炊いた人、詰めた人・・・目には見えないし、関わることもないけど、たくさんの人が関わってるんですよね。

腰が痛くても稲刈りをしたのかもしれないし、体調悪くても出勤してひたすら米を詰めたのかもしれない。

それが機械だとしても、その機械が出来あがるまで、設計したりプレゼンしたり試作したりして出来たんだろなあ。

 

そういう人たちってスポットが当たらない場所にいるけど、実際彼らにこそ支えられてるんじゃないのか、って思うときがあります。

 

芸能人やアーティストや芸術家とか華やかな人にはもちろん、人を勇気付けたり元気付けたりする力があるから、受け手側としても意識的に「救われた!」みたいに思うことが割と簡単に思うのですが、見えない人、決して表舞台に出ない人にもすごく助けられているなあ、と。

 

生きるって地道の連続。

 

地道って地味だし目立たないけど、私は好き。