≪内容≫
突然変異の人類“クチチュ”らと共に旅を続けるアキラは、生への執着から解き放たれた人々が猿のように生きる村や、ロボット制御の病院で人間が管理される残酷な姿を見届け、遂に宇宙空間へと向かう。冒険の果てに辿り着いたのは絶望か、それとも希望なのか―。現代社会の行く末を予言する、傑作長編小説。第52回毎日芸術賞受賞作。
本を読んで、静かに泣くことはあっても、「泣きたい」と思い泣いたのは初めてかもしれない。
村上龍って不思議な作家だなと思った。
そしてこの人の話を、この人の言葉をもっともっと聞きたいと思った。
歌うクジラ
二〇二十二年のクリスマスイブにアメリカ合衆国海軍の潜水艦がハワイのマウイ島近くの海底付近でグレゴリオ聖歌の第二旋法の中の一つの旋律を正確にくり返し歌うザトウクジラを発見した。
水中音響装置から聞こえてくるメロディは通常のクジラの歌の音階ではなく、間違いなくカロリング朝フランク王国で九世紀初頭に作られたグレゴリオ聖歌だった。
(中略)
皮膚組織の表面にはクジラ自身のもんどあと確認された接怪物が付着していて、年代測定を行った古生物研究所は、信じがたいこよだがそのクジラの年齢は最低でも千四〇〇歳だと推定されると発表された。
このクジラを研究し人類は不老不死の遺伝子を手にした。
それがSW遺伝子である。
この秘密が書かれているICチップを本土にいるヨシマツに届けてくれという父からの遺言を胸にアキラの旅が始まる。
その秘密というのは、実は歌うクジラなど発見されておらず、SW遺伝子の出自を微笑ましいものにする為の目くらましだった。
SW遺伝子の問題とは誰に注入するかであり、それは必然的にあらゆる国家と個人の階層化を促すことに繋がるからだ。
実際世の中の情報のどこに信用があるのだろうと思う。
メディアが提供する情報は疑問を持つこともなく真実だと思い込み、それが正しいと思っていないだろうか。
「歌うクジラ」のように目くらましにされた話題がどれほどあるだろうか。
そしてその背景でどんなことが起こっているのだろうか。
私たちは、この物語の隔離された島民達のように指示されていないだけで、自ら考えるということをやめてはいないだろうか。
知ることは恐れを生むし、落胆も生む。
知らなければ幸せだったと後悔することもあると思う。
それでも知らないことは幸せなんだろうか。
知らないことに気付かないことで何が得られるのだろうか。
もしくは何も欲しくはないのか。
タナカアキラ
タナカアキラ・15歳
新出島出身。北部九州の沿岸にある島。
この島には性犯罪者の隔離施設が建設されている。
島は閉鎖されているので生命の実験場と言った政治家がいる。
食事は棒食と言われる棒状の練りものが通常食。
食事は元来余計なものだと教えられているため、刺激のない棒食がメインになっている。
島の人間が本土の人間より体力があるわけがない。体力も知力でも精神力でもあらゆる面で普通より劣る人間がいると島で繰り返し教えられた。人間に差があるのは当然で悪ではないと言われて育った。
劣った人間だからといって悲しいという感情を持つ必要はないのだと刷り込まれているが、島の子どもたちは本土の子どもたちと体力や知力を比べることがない。
ぼくはあらゆる面で本土の人間に比べて劣っているはずだ。
島民は一体何の為に生きているのか。
そう思えるほど過酷な状況にある。
でも当の本人達はそれが当たり前なので何の疑問も持たない。
食事に喜びの概念を持ってはいけないと教えられ、教えられたことを忠実に守ってきた。
それは死にたくないからだ。
命令に従えば死ななくて済む。
そうして弱い者から思考を奪う。
思考を奪われた人間は従順になるだろうと上層部は思うのだが、旅の中でアキラには色んな感情が芽生えていく。
最終的にヨシマツに出会ったアキラだったが、父親の残した秘密のデータとはヨシマツが誘導したものであり、何の価値もなかった。
脳だけになったヨシマツが求めていたのはアキラの若い脳だった。
たとえわずか五十センチでも、五センチでも、ヨシマツから離れるという意思を持たなければ、ぼくはぼくではなくなってしまう。
これまで、ぼくが自分が自分であることを、喜ばしく感じたことなどない。
自分が自分であることの、ほとんどすべてがいやだった。
だが、ヨシマツだろうがほかの誰だろうが別の人間になることだけは絶対にいやだった。
他の人間になった自分をどうやって憎めばいいというのだろうか。
ヨシマツは言う
お前らは人間と生の可能性から最も遠く切り離された階層の出身で、惨めな体験と記憶だけがある。
わたしは自分のためではなく、お前のためにこのリクエストを申し出たのに、それを拒んで逃げようとするとは、これほどバカげていて無意味な行為に接するのは初めてだ。
操り人形のようだったアキラが、自らの意思で動いた。
今まで「何かわからないけど」というような感情はあったけど、最後にアキラは明確な意思を持った。
今のぼくには移動する手段も力もない。
だが、移動について気づいたことをアンやサブロウさんやサツキという女に伝えたい、そう思った。
だから、小さな光がイスンであることを祈るしかない。
ぼくは生まれてはじめて、祈った。
生きていたい、光に向かってつぶやく。
生きていたい、ぼくは生きていたい、そうつぶやき続ける。
「誰かに伝えたい」という気持ちこそが希望なんじゃないかと思う。
「誰かに」というのは一人じゃ出来なくて、絶対に他者が必要なもの。
「伝えたい」というのは自分の意思があるということ。
誰かに任せっきりになるのではなく、誰にも頼らずに生きてくのではなく、共に生きていく。
共に生きていきたい誰かと出会えたこと。
アキラが旅で見つけたものは、島から出なければ見えなかった希望なのだ。
自分に嘘をつかないために
最後によしもとばななさんのお話が入っていて、その中のこの一文で私は涙がぼろぼろと流れて、そこからなんだか泣きたい気持ちになって暫く泣いていた。
もうだれも理解できなくてもいい、この世にまだいないかもしれないどこかの誰かにシェアするために、自分に嘘をつかないために、知っていることを躊躇せず書くのだと決めた。
そうなんだ。と思った。
私がこの何のノウハウにもならない書評を書き綴っているのは、自分に嘘をつかないためなんだと。
別にこのブログを書くことは孤独じゃないし、空しくもない。
だけど、誰かを求めないならネット上にあげなくてもいいのだ。
一人でノートやらパソコンのメモに残すなり非公開にすればいい。
「この世にまだいないかもしれないどこかの誰か」を求めているのだ。
この思いが正しいとか間違いとか、善悪とか、そういう判断をしてほしいんじゃなくて、どこかの誰かと分かりあいたい。
普通に生きてて、楽しいこといっぱいある。
親友もいるし、職場も、嫌な人はいるけど関わらなければいいだけで話の通じない人はいない。
拒絶すれば拒絶される。意思疎通出来てる。
友人と話すのは楽しいし、別に嘘ついて明るく振舞ってるわけじゃない。
でもそれだけが私の全てじゃない。
別に隠してるわけじゃないけど、会話の中で見せる必要がない私という私がいる。
表向き、社交的で明るくて他愛もない話をする私も嘘じゃない。
だけど、どこかで無意味な私がそんな無意味な所も私なんだよ!と叫んでる気がして。
無視することと、黙殺することが同義語なように、「殺さないで!」と言ってるような気がして。
あたしは、なんでこんな事書いてるんだろう、誰かの為になるようなことを書けばいいのに・・・と何度も思ったけどこの本を読んで、あたしはあたしの中の無意味なあたしが生きる希望として、無意味なあたしの言葉を誰かに伝えたいと思ってやっているんだって思った。
そしたら、多分、無意味なわたしが泣いたんだと思う。
やっと気付いてくれたって堰を切ったように。
私はきっと、何度もこの本を読み返すだろう。
そのたびに、注目点も解釈も変わるだろう。
そして何度も希望を見つけるんだろうな、と思う。