≪内容≫
瞬間瞬間を生きているか。ほんとうの自分を貫いているか。「才能なんて勝手にしやがれだ」「ダメ人間なら、そのマイナスに賭けてみろ」 今も鋭く問いかける、生涯芸術家岡本太郎からのメッセージ。93年刊の新装版。
私の人生を変えた一冊。
この本を読んでからすごく自分を大切にしなくなった。
こう書くと語弊があるように聞こえるかもしれないけど、自分を大事にしていると何もできないということが分かったし、そこまで大事にするものでもないなって思ったんです。
私が死んだって何も変わらないし、私がどれだけ他人に嫌われようが恥をかこうがそれでも全世界の人に知られることはないわけで。
ということは、自分を大事にして何も出来ずにいたらそれこそ一人ぼっちなのだと思った。
そうやって小さな世界で誰にも気付かれずに死んでいくのはいやだと思った。
情熱は無条件
何をすればよいのか、それがわからない、と言うかもしれない。それが、ごく一般的なのだ。誰もが何かしなきゃいけないと思っている。ところがその"何か"とは、いったい何なのか、よく考えてみると、てんでわからない。
こういう悩みは誰もがもっている、多くの人がそうだ。
ではどうしたらいいのか。ひとに相談したって仕様がない。
まず、どんなことでもいいからちょっとでも情熱を感じること、惹かれそうなことを無条件にやってみるしかない。情熱から生きがいがわき起こってくるんだ。情熱というものは、"何を"なんて条件つきで出てくるもんじゃない、無条件なんだ。
私が岡本太郎氏を好きな理由のひとつがこの"真面目さ"です。
社会に出て感じたのはこの真面目さを持っている人はとてもとても少ないということです。
もしくは、真面目さを持っていてもそれを隠している人が多いということ。
自分から自分を開示することができない人が多いということ。
「やりたいことないし」「やってみたいけど、でもね~」「めんどくさいんだよね」「楽しければいいじゃん」が多くて、真面目な奴はめんどくさい、ノリ悪いみたいな風潮が暗黙の了解的に潜在していて、いわゆるマジレスみたいなすると「何こいつめんどくせぇ」みたいな空気になる。
私は「楽しければいいじゃん」って、マジでやったその先にあると思うんですよ。
とりあえずヘラヘラ歌うカラオケより、マジで練習して歌った方が気持ちいいでしょ。
「考えるな感じろ」っていうのは、感じることが苦手な人にとってはますます混乱させるだけの言葉で、まず感じられるだけの基礎がないと意味ないわけです。
空気読めない人に空気読めよ!って言っても意味ないでしょ。
こういうことを突き詰めて考えるから"やりがい"が生まれると思うんですよ。
なんか変な話なんですが、「苦しみがない」がないと、「楽しみ」は生まれないと思うんですよ。私の場合はね。
好きなら好きなほど苦しみも大きい。
苦しみがほとんどない楽しみが生むのは「虚しさ」なんです。
こうやっていつもいつもマジで生きているとたまにパンクします。
今回は銀魂並におぼろろろろろと吐きました。
こんなに吐いたのは小学生以来な気がします。
ほんとに立てないほどお腹が痛くなって、救急車を呼ぼうにも身体が動かないし、尋常じゃない冷や汗で体が汗だくになってなのに寒気が止まらなくて、あ~本当に自宅にいるときで良かったと思いました。
こういうとき、今まで胃腸が頑張ってくれてたんだな。
自然のSOSや・・・とこうなってやっと身体に目を向けられる自分。
大事にするってムズカシイ。
己を殺せ
前に、禅宗の坊さんたちに「己を殺せ」と言った話をしたけれど、あれは「禅」じゃなくて人生の極意なんだ。自分を殺す、そこから自分が強烈に生きるわけだ。
それがほんとうに生きることなんだ。
自信なんていうものは相対的価値観だ。誰々よりも自分は上だ、とかいうものでしかない。
そうじゃなくて、人間は生死を越えた絶対感によって生きなければだめだ。
自分を殺す、そこから自分が強烈に生きる
最大の敵は自分自身に他ならない。
他人と比べてどーだあーだと悩むこと、これが一番もったいない。
しかし、他人がいるからこそ情熱は生まれる。
他人が書いた本、華麗なダンス、素敵な歌声、そういうものが「私も出来るようになりたい」「こういう考えで生きていきたい」という情熱を生みだし、行動に繋がり、やりがい、生きがいになっていくのだと思う。
「憧れは理解から最も遠い感情だよ」とは全くその通りで
↑BLEACHの愛染は人間的に嫌いだけど発言は好き。矛盾
これは自分で考えることを放棄した人間に言える。
自分が傷付きたくないから、責任を取りたくないから、誰かに任せる。
山頂に辿り着いたなら下らなければどこにも行けない。
山頂に留まり続ける限り、どんどん息苦しくなっていく。
生きるとはなにか
人間の生命、生きるという営みは本来、無条件、無目的であるはずだ。何のためにこの世に来たのか。そして生きつづけているのか。本当をいえば、誰も知らない。本来、生きること、死ぬことの絶対感があるだけなのだ。
生命を考えるとき、私が思い浮かべるのは好きなアイドルやアーティストや作家や家族、親友、職場、地域、日本ではなくて、発展途上国なのです。
見たことも行ったこともない、アフリカの子どもたち。
瘦せ細り、ボロボロの服を着てそれでも笑顔で写真に写る子どもたち。
彼らこそが生きるということ人間の姿なのではないかと思う。
に書かれている「相対的貧困」における「普通のことができない」の「普通」が高すぎると思う。
水泳できなくても死なないし、英語できなくても一生日本にいるんじゃ関係ないし、ピアノ出来ても出来なくても関係ないし、塾に通って成績上げても死んだら意味ないじゃん。
あと制服とか、ランドセルとかはもうやめろ!と思うし、教科書とか体操着とかリサイクルすればいいじゃんって思う。
英語とかこれからの時代に必要!って思っても、それを生かす仕事につかなきゃ意味ないし、子どもの時にイヤイヤやるより大人になって自分の意思でやろう!って決めて始めた方が効果出ると思う。
とはいえ、子供というのは相対的に物事を判断して大人になっていくので周りの環境にどうしても影響される。
「うちはうち。人は人。」という言葉で納得できない子もいれば、家庭状況を察知できる子もいる。
生きる為にお金は必要。
だけど、それだけが全てじゃない。
実際問題、空気清浄機がなくてもエアコンがなくても電子レンジがなくても生きていけるのに、お金があれば便利を買いたくなって便利を買えばそれだけ生きる本質から遠ざかっている気がする。
何者かになりたいとか、誰かに夢を与えたいとか、それが生きることなのか。
それが生まれてきた理由なのか。
何のために生まれ今なお生きつづけいつ死ぬのか。
それは誰にも分らない。
ただ自分が情熱を絶やさずに開いていくことだけ。
太郎氏の強い言葉がたくさん詰まった本。
たくさん色んなことについて書いてあります。
そして読書も薦めています。
もし太郎氏の言葉に強く共感しても心酔してはいけません。
憧れは理解から最も遠い感情であり、理解とは自分との戦いであり、それを放棄したら自分が息苦しくなるだけだから。
太郎氏には太郎氏の信念があり、それがこの本に書かれていること。
あなたの信念は誰のどんな素晴らしい言葉でも作れない。
私の信念は私の中からしか生まれない。