≪内容≫
「産み人」となり、10人産めば、1人殺してもいい──。そんな「殺人出産制度」が認められた世界では、「産み人」は命を作る尊い存在として崇められていた。育子の職場でも、またひとり「産み人」となり、人々の賞賛を浴びていた。素晴らしい行為をたたえながらも、どこか複雑な思いを抱く育子。それは、彼女が抱える、人には言えないある秘密のせいなのかもしれない……。
10人産めば、1人殺してもいい
という衝撃。
命の違い
コンビニ人間でも出てきましたが、虫や動物の命は命とも見ないのに人間の命はたいそう大事に扱う世界で私たちは生きています。
死んでいる鳥のお墓に供えるために花を摘む行為。
イナゴを食べる人間。
虫を潰す無邪気な子供の遊び。
この「殺人出産」では、その命の違いについて語られています。
「10人産めば、1人殺してもいい」という常識と、虫たちが当たり前におかずとして並べられている世界です。
テーブルの上には定番の蝉スナックにカラフルな蝶の羽のチョコレートがけ、酸味が強い蟻のサラダが並べられ、皆甘いコーヒーを飲みながら、指をのばして、グロスの塗られた唇へ乾いた虫を運んでいた。
主人公の姉は生まれつき殺人衝動がありました。
しかしまだ「10人産めば、1人殺してもいい」という「産み人」制度がなかった時代で、主人公は姉を不憫に思い虫を瓶に詰めて送りました。
姉は殺人衝動を虫で紛らわします。
それはやがて爬虫類へと向かい、新たな制度「産み人」へと向かいました。
ここでおそらく読者側の立ち位置に置かれるのが、主人公の会社に新しくやってきた仲間の早紀子です。
彼女はどこからか主人公の姉を調べ上げ救いたいと申し出る。
産み人は、10人目を産み終えると、すぐに役所に殺人届けを提出する。翌日には、殺す相手に電報で通告が行く。
それから「死に人」は1ヵ月の猶予が与えられる。殺されるのがどうしても嫌なら自殺してもよいが、通常は1ヵ月後に役所の人間がやってきて自分を連れて行く日を身辺整理をしながらゆっくり待つことになる。
10人子供を産むことが出来ず途中で命を落としてしまう産み人や、突然命を奪われる死に人がいる世界を、狂っているという早紀子。
しかし、生まれながらに殺人衝動を持つ姉はこの世界が正常で嬉しいと言う。
蝉の入ったベーグルを食べる早紀子。
殺した虫のお墓まで作り涙を流す姉。
命の価値について
早紀子は人間>虫
姉は人間=虫
で成り立っています。
はたして何が正しくて、何が狂っている世界なのか。
人から生まれ、人を産み、人を殺す。
そうして初めて命の責任を背負うことが出来るのかな・・・と最後のシーンでは思いました。
もし1000年後にこんな世界になっていたとしても、驚かないかもしれない。
トリプル/正常なセックスとは
この本、読み進めるまで気付かなかったんですが短編集なんですよね。
二本目は「トリプル」。今でいう3Pが当たり前でカップルはちょっと変わっている古風な人達という世界です。
普通のカップルのセックスは現代のセックスで、トリプルにおけるセックスは「マウス式セックス」となっています。
挿入を目的とせずマウス役の人間の穴という穴を二人でひたすら蹂躙する内容になっています。
詳しくは本書を見てください。
かなり詳しく書かれているので、電車とかで読まない方がいいかもしれません。
前に何かの書評で書きましたがセックスの挿入が恐怖に感じる人はいると思います。だって汗だくで一心不乱に相手の穴を突きまくるって当たり前として刷り込まれてなかったら恐怖じゃないですか?
「これが正しいのよ!」と言われてるから受け入れることが出来ているのかも・・・と思ってしまう。
きっと、真弓も、お母さんも、友達も、三人とも清らかなんだ。だから他の人の清潔な世界を受け入れることができないんだ。それだけだよ
トリプルの真弓は、ひょんなことからカップルの友人のセックスを見てしまい気が動転してしまいます。
「あんなおぞましい行為」として真弓には映るのです。
人って人を否定するけど、それってたぶんこの心理なんだろうなぁ~って思いました。きっとみんなそれぞれの清潔な世界、神聖な部分があるから、だからそこから逸脱した人間に対して否定したり拒否したりしちゃうんだろうな。
そう思うと、否定や拒絶が忌むべき行為とは思えなくなってくる。
否定や拒絶をする人は自分なりの世界や確固たる部分を作りあげているからなのか、と思うとそれって尊いことかもしれない・・・とふと思いました。
余命/可愛い死に方100選☆
医療が発達し「死」がなくなって100年ほどになった世界。
この世界の人々は自分のタイミングで死を選ぶのであった。
本屋に行くと、死に方に関するいろいろな本が並んでいる。「女子にぴったり!可愛い死に方100選」「男のインパクト死!印象に残る死に方でかっこよく逝く方法」「愛される死に方ランキング☆図解説明付き」。
ブラックユーモアとはこういうことかwと思う作品。
自分で死のタイミングを計れるということは、死にも責任や評価がついてくるという不老不死を夢見る現代に一石を投じるようなお話。
土に還る、というのは今人気の死に方だ。死んだあと、あの人はああ死んだらしいとか、普段は地味なのに派手で迷惑な死に方をする奴だったとか、いい歳してあの死に方はないだろうとか、人間性を噂されたりセンスを笑われたりするので、なるべく大人しく、それなりにお洒落に死にたい。
人間性を噂されたりセンスを笑われたりするので、なるべく大人しく、それなりにお洒落にという部分は、生きている人間の大半が思って過ごしているのでは?と思う。
「殺人出産」でもそうだったんですが「死」って救いでもあるんですよね。
「こいつ殺してやる」と思うと、理不尽な出来事を回避出来たり人間関係で思いつめることもなくなる。
大体、何か始めるときや失敗したとき、「死ぬもんじゃないし!!」って自分を鼓舞出来るのも「死」が終わらせてくれるからなんですよね。
「死ぬ気でやんな!」「死んだら終わりよ!」って言葉があるのは、やっぱり「死」に何ら責任がないからだと思います。
だから生きている内は責任を背負えると思う。
それなのに、死ぬときでさえ生きているときと同じ感覚にならざるを得ない世界というのは、何ともディストピアな気がします。
一番のほほーんとしたお話ですが、一番ディストピアだと思います。
村田さんの作品は、価値観をぶっ壊してくれるなぁって思いました。
当たり前すぎるところに「え?それってほんとに正しいと思ってる?」って斬りこんでくれる。
こういう作品に出会うと引っ張られるように、どんどん発想が自由になります。
「自由でいいんだ!」「過半数の意見が正しいって思わなくていいんだ!」と強気になって卑屈から解放される。
最近「私の消滅」を読み終えて中村文則さんには追いついたので、次はクレイジー沙耶香さんを追いかけます。
価値観が壊れるのが最近楽しくてしょうがない。