≪内容≫
町をあげての婚礼騒ぎの翌朝、充分すぎる犯行予告にもかかわらず、なぜ彼は滅多切りにされねばならなかったのか?閉鎖的な田舎町でほぼ三十年前に起きた幻想とも見紛う殺人事件。凝縮されたその時空間に、差別や妬み、憎悪といった民衆感情、崩壊寸前の共同体のメカニズムを複眼的に捉えつつ、モザイクの如く入り組んだ過去の重層を、哀しみと滑稽、郷愁をこめて録す、熟成の中篇。
ガルシア=マルケスは「百年の孤独」を読んだ時に強烈に感動したので、ものすごく記憶に残ってる作家さんです。
本作は140pほどの薄い本ですが、かなり内容が濃く、読んでる最中も読後も重厚な本を一冊読んだくらいの疲労がありました。(いい意味で)
殺人は民衆の総意
ビカリオ兄弟は自分たちの計画を、牛乳を買いに来た十二人を超える人々に話した。その客たちによって広められたため、彼らの計画は六時前には町中に知れ渡っていた。クロティンデ・アルメンタは、向いの家がその話を知らないはずはないだろうと思った。彼女は、サンティアゴ・ナサールは家にいないと思っていた。
本作は、コロンビアのスクレという田舎町で実際に起きた事件をモデルにしたもので、作者のG・ガルシア=マルケスが関係者に徹底的に聞き込みをしてできた作品だと書かれています。ただし、この作品が発表出来たのは関係者の多くが亡くなってから。
さて、殺人を予告されたのはサンティアゴ・ナサールという若者でした。彼を殺す計画を立てたビカリオ兄弟はその内容を隠さなかったため、自ら口にした以外でも噂が噂を呼び、もはやほとんどすべての人がサンティアゴ・ナサールがビカリオ兄弟に命を狙われていること、しかもそれがビカリオ兄弟の家族であるアンヘラ・ビカリオの結婚式だと日時や場所までもはっきりと示されていた。
しかし、引用文にあるように人々は「たぶん~だろうと思った」という関心はあるけれど、われ関せずと言った態度をとっていた。たぶん誰かがもう言っただろう、というように。
かくして、サンティアゴ・ナサールは予告どおりに死を迎えるのだった。
田舎町というのはどこの国でも閉鎖的なものなのかもしれない。
この作品で気になったのは、ビカリオ家の子どもたちである。
けれども彼が後にわたしに説明したところでは、まだそれは確かだったのだが、彼は軍隊にいるときにナイフで髭を剃ることを覚えたのであり、他の方法では剃れなかったのである。それに対し兄の方は、貸してもらったドン・ロヘリオ・デ・ラ・フロールの剃刀で、もっと控え目に髭を剃った。
そもそもなぜ殺人が行われたのかという動機について、おそらく名誉殺人なのだろうと推測する。ビカリオ家の娘・アンヘラ・ビカリオは町の人間ではない謎の裕福な男に求婚されるが、すでに彼女は処女膜を失っていた。そのことで相手は誰だと言う事になる。そこでアンヘラ・ビカリオが挙げた名前がサンティアゴ・ナサールだったのだ。
双子の兄弟はアンヘラ・ビカリオの名誉のためにサンティアゴ・ナサールを殺そうとする。憎しみも何もなかったのに。
教えられたやり方以外を知らない弟と、土着的な繋がりを守る兄。母親は娘を街の掟で縛り、その掟を大人は信じる。
女性の処女性についてはこの映画でも書かれていたけれど、自分以外の人間が自分の処女膜を異常に守ろうとするとき、それを失くしても自分が存在し続けることを証明するかのように自ら捨てる気がする。
だって、まるでそれがなかったら存在理由がないみたいに扱われたら、反抗の意味としてもそれを打ち破ってしまいたいと思うと思うから。
母親は何がなんでもアンヘラ・ビカリオを生きたまま死なせようとした。
この悲しくも本当に起きた事件は、サンティアゴ・ナサールが実際に起こしたわけではなく、街に住む人たちのサンティアゴ・ナサールとは直接関係のないフラストレーションが起こした偶然が最悪な結果を導いたように思えました。
- 作者: G.ガルシア=マルケス,Gabriel Garc´ia M´arquez,野谷文昭
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1997/11/28
- メディア: 文庫
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サンティアゴ・ナサールは死んでしまったけれど、その原因はアンヘラ・ビカリオが名指ししたからであり、その名前は他のだれかである可能性もあったはず。一人の人間が実際に死に、生きたまま殺されそうになった少女が命を吹き返す。おそらく、事件の記事なら新聞の小さな隅で終わりそうな出来事だけど、その中には多くの人間の深層心理が隠されていたのだった。