《内容》
その日、12人の未成年たちが、安楽死を求め廃病院の密室に集まった。「みんなで死ねば、怖くないから」。ところが、彼らはそこで13人目のまだ生あたたかい死体に遭遇。突然の出来事にはばまれる彼らの安楽死。あちこちに残る不自然な犯行の痕跡、次々起こる奇妙な出来事。彼らだけしか知らない計画のはず。まさかこの12人の中に殺人鬼が…?彼らは安心して“死ねるのか”怯えながら“殺されるのか”…。
自分より若い子たちがこんな想いをしているのかとか、まだ少ししか生きていないのに死を選ぼうとしていることとか、率直に哀しい。自由だし年齢は関係ないと思っても、それでも大人として情けないなあと思うのであった。
結果が死でも、自殺と殺人は違う
死ぬために集まってきた十二人と生暖かい死体。
死ぬためにやってきたのに、死んだあと、この死体の殺人の疑惑を立てられるのでは?と不安になったり、この死体の行く末が気になりだす十二人は死ぬ前に、この死体が何者で、一体誰が殺したのか考え始める。
しかし、死ぬためにやってきたのだから、今すぐ死にたい人や、切羽詰まって死に急ぐ者もいた。
彼らは自分たちがなぜ死にたいのかを語りだす。
どこかで誰かが止めないと
これ以上あたしたちみたいな子どもを増やしちゃいけない
だから私たちが
身勝手な大人たちに無価値な生を与えられた私たちが
皆で抗議するのよ
生まれてくるべきじゃなかったって
病気や、後悔や、復讐のために死を選ぶ。誰かにやられる前に自分の意思で死を決めたいけど、一人で死ぬことはできない。
彼らは自分以外の人の意見を聞くたびに「あたしは違う」と、自分の意見を口にしていく。そうこうして口論というなのディベートをしていくうちにどんどん「こうしたらいいんじゃないか」という未来志向へと変わっていく。
死ぬことで何かを伝えるのではなく、生きて口に出して表現することを選んでいくのだ。
自分一人で考えている内は「きっとこうに違いない」と視野が狭くなる。自分のことはとことん下げられるし、自分を卑下することの方が、自分を信じるより簡単だから。
だけど、そこに第三者という他人が入ると逃げられなくなる。それはあなたのせいではない、それはそんなに思い詰めることじゃない、極論でいうとそれは死ぬほどの問題ではない・・・とかね。
人と話すと傷つくけれど、相手から見たら些細なことでも自分一人で抱えている内は本当に死んでしまいたいくらいの問題というのはあるものだ。
だからこそ自分からは話せない。こういう場で、同じような苦しみを持っているという前提がない限り。
大人がなんだかんだ心配しても、こういう問題って同年代のぶつかり合いでしか解決できないことってあるんだよなぁ、と思うとほんと若者たち大変だと思うが生きてほしい。おねいさんも生きるから。