深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

スタンド・バイ・ミー/スティーヴン・キング~友達は、数ではなく、どこまで同じ苦しみなりなんなりを共闘できるか~

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≪内容≫

 森の奥に子供の死体がある──噂を聞いた4人は死体探しの旅に出た。もう子供ではない、でもまだ大人にも成りきれない少年たちの冒険が終ったとき、彼らの無邪気な時代も終ったのだった……。誰もが経験する少年期特有の純粋な友情と涙を描く表題作は、作家になった仲間の一人が書くという形をとった著者の半自伝的作品である。他に英国奇譚クラブの雰囲気をよく写した1編を収録。

 

キングってすごく不思議だなぁと思います。いつも誰か死んじゃって、物語が終わるときには最初と一緒じゃないのに、なぜか哀しみだけじゃなく懐かしさがある。

 

友達という存在

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「ほんと、おれがおまえのおやじならよかったのにな!」 

 

この作品と「IT」において、子どもたちの保護者は社会的にはもちろん大人ですが、友達でもあります。

「スタンド・バイ・ミー」は森の奥にあるという少年の死体を見つけに、はみだしものの4人組が線路を歩きながら小さな旅をするお話です。

 

彼らは街でうわさになってる恐ろしい犬に追いかけられたり、意地悪な肉屋のおじさんにボラれそうになったり、ヒルに噛みつかれたり、夜のざわめきに脅えたりしながら目的の少年を見つけます。

 

その中で少年たちはそれぞれの親との仲や将来について少しずつ話して行きます。

 

だけど、子どもってのは、誰かが見守っててやらないと、なんでも失ってしまうもんだし、おまえんちの両親が無関心すぎて見守っててやれないってのなら、たぶん、おれがそうすべきなんだろうな。

 

少年クリスは、主人公のゴーディに向かってこう言います。

この「子どもってのは、誰かが見守っててやらないと、なんでも失ってしまうもん」というのは、「ハックルベリ・フィンの冒険」の中でハックも同じようなことを言います。

ゴーディが作る物語は一緒に旅をする3人を楽しませた。その中でもクリスは、ゴーディが語る物語に才能を感じ、ゴーディがその力を伸ばせられるような環境を望んでいたが、ゴーディの両親は亡くなったゴーディの兄貴にしか興味がなかったのだ。彼が死んでからも。

 

クリスがゴーディの"おとうちゃん"であるように、ゴーディもクリスの"おとうちゃん"だった。クリスは賢かったが、両親や兄弟のせいで社会から信頼がなく、「お前も俺たちと同じさ」という言葉に捕らえられていた。

クリスとゴーディはお互いがお互いを見守りながら大きくなっていくのだ。

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だが、女の子を入り込ませないこと、それが生き残るための唯一の方法だった。わたしたちは深い水の中で、たがいにしがみついていたのだ。(中略)キャッスル・ロックと工場の影からのがれたい、というクリスの願望は、わたしにとって、最高の一部分になるように思われたし、クリスひとりをのるかそるかの人生に残していくことはできなかった。もしクリスが溺れたら、わたしの一部も彼とともに溺れてしまっただろう。 

 

友達は、数ではなく、どこまで同じ苦しみなりなんなりを共闘できるかだと私はひそかに思っていたりする。

 

人がほんとうに必要なことやものは、生命に直接つながるものです。いわば生活です。それを脅かすもの、それを生き生きと輝かせるもの、そういったものを自分の以外の誰かに明け渡し、明け渡され、共に闘い、共に守る。

そういった行為は、別にドラマチックな小説や映画的展開じゃなくても日常にあります。世の中をすかして見るでも、諦めて見るでもなく、懸命に生きるなら、物事のすべてに闘いはある。私たちはいつでも何かと闘ってる。

少年から大人に変わり、本格的に闘わなければならない場所に行くための一種の儀式のような死体探し。キングが語るように、「口に出した言葉は愛情という機能を壊してしまう」から、この冒険は必要不可欠だったのだ。