≪内容≫
横山秀夫のミステリー小説を佐藤浩市主演で映画化した前編。かつては刑事部の刑事、現在は警務部・広報官の三上義信は、常にマスコミからの外圧にさらされていた。そんな彼が、昭和64年に発生した未解決の少女誘拐殺人事件、通称「ロクヨン」に挑む。
昔、警察に被害届を出したことがあって、そのとき担当してくれた人と現場に行ってこれこれこの場所でこんな感じで被害に遭って・・・っていう説明をしてまた警察者に戻る車の中で犯人が見つかったらどうしたいですか?って聞かれたんです。でね、とりあえずなんでこういうことをしたのか聞きたいと言ったら、「被害に遭われた方は理由を知りたがります。それは当然のことだと思います。でも、ほんとうに申し訳ないですが、理由がある犯行なんてほとんどないんですよ。理由を聞かれて答えられる人は稀です」的なことを言われてなんか体中の力が抜けた気がしました。たぶん返事を返せなかったと思う。焦った二人の警察の人の顔を覚えてる。
痴漢だったんですけどね、こんだけ自分が怖い思いして手間暇かけて警察まで足を運んでもう一回現場に行って説明して・・・って肉体的にも精神的にもコストのかかることをそいつの気まぐれな痴漢のおかげでやらなきゃいけなくなったというのに、そこに理由がないんだってことがすっごくショックでした。
よくよく考えれば怨恨の方が怖いけど、こういう"たまたまこの日この場所この時間"に出会う悪意って永遠に消えない疑問を刻みつけてきます。
なんで私なの?って。
家族と他人
未解決の少女誘拐殺人事件の時効まであと一年と迫っていた。かつて事件の捜査に加わっていた三上義信(佐藤浩市)はもう一度事件を追うことにした。
被害者の遺族の元を訪ねると亡くなった少女の遺影の隣にあの日の奥さんの写真が飾ってあった。二人がいなくなった家には老いやつれ見るからに憔悴している雨宮さんが一人静かにそこにいた。
当時の事件を担当していた幸田は事件の半年後に退職しており、この少女誘拐殺人事件の傷は殺された雨宮翔子ちゃんと残された遺族だけでなく多くの人の心に重い碇を落としていた。
そんなあるとき、翔子ちゃんが誘拐されたときとまったく同じやり方の誘拐事件が勃発する。まだ事件は終わっていない。三上は今回の犯人と翔子ちゃんを殺した犯人を追う。
この映画のハイライトは個人的にこのシーン。警察が無能だとは言わない。けれどもやはり他人である警察は仕事の一環であり、遺族である家族はもうそれ自体が生活になってしまうのだ。
事件が起きたら警察は動くけれど警察官自身の生活には変化はないはずだ。だが、遺族や被害者の生活は変わる。その強制的な変容の力の源は底知れぬ闇ではないだろうか。
他人のために底の見えない闇に手を伸ばせるだろうか。自らの危険を回避するための道具や武器や知恵を準備してから、腰に縄をくくりつけてからその闇に初めて触れられるのではないだろうか。
その点、家族というのは、親が子を失うというのは、自分の中の大切な何かを失うことのように思う。さまよう刃でも感じたことだが、家族というのはすごく不思議な縁だと思うのです。
家族の中の誰か一人でも悪意によってどこかに連れ去られてしまったとき、普段は他人と同じように何を思っているのか、どんな未来を描いているのかも分からず、生まれた時代も考えも違うのにも関わらず、まるで自分のことのように壊れてしまうのだ。
だからこそ掏摸は怖いのです。
こういう家族の繋がり以上の力を見つけるのが難しいから。
でも血が繋がっていなくても、家族にはなれるから。だって他人同士が結婚して家族ってできる。例えどんなに時代が変わっても個人主義が強くなっても家族という小さな世界はけして消えない。