深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

【映画】聖なる鹿殺し~人は皆平等なのだ、という本当の意味~

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≪内容≫

コリン・ファレル、ニコール・キッドマン共演によるサスペンススリラー。妻とふたりの子どもと暮らす心臓外科医・スティーブン。彼は父親を亡くした少年・マーティンを気に掛け、家に招き入れる。しかし、やがて家族に奇妙な出来事が起こり始める…。

 

 大体タイトルに惹かれる作品ってキリスト教かギリシャ神話ベースだということにやっと気付いた。まず「聖なる鹿」が気になるし、「鹿殺し」って「騎士団長殺し」みたいだし、とにかくタイトルホイホイである。

「騎士団長殺し」の記事を読む。

それにしてもこの本と本作は不思議なリンクがある。少年・マーフィンの「僕の例えはメタファーだ」という台詞=村上春樹=神話で辿り着いた人も多くいると思うけれど、このパッケージとタイトルだけでギリシャ神話に辿り着けた人がいたら尊敬しかない。知識不足・・・。なので本記事ではギリシャ神話には触れません。・・・ていうか触れられない。

 

全てを平等に戻す病

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先生は僕の家族を1人殺した
だから家族を1人殺さなければならない

 

誰にするかはご自由に
もし殺さなければ皆死ぬ

 

ボブも
キムも
奥さんも
病気で死ぬ

 

1.手足の麻痺
2.食事の拒否
3.目から出血
4.そして死

 

  主人公は心臓外科医のスティーブン。豪勢な家に住む四人家族の主で妻は眼科医美しい娘・キムは音楽と文学の才能に溢れた少女で理系に強く将来有望な医師の息子・ボブがいた。スティーブンは大規模な学会で心臓外科手術の進化を発表するなど、順調に術歴を重ね自他ともに認める偉大な医師であった。彼は言う。「手術が成功すると執刀医は早死にする」。

 しかしスティーブンはその明晰な頭脳と技術に劣らない愚かさも持ち合わせていた。心臓外科医という人の生死の境目に触れることが一般の人間よりも多い人生を歩み続けてきたスティーブンは、手術が日常になってきてしまった。執刀の前にメスを持つ神の手で酒を煽ることも日常茶飯事になっていた

 

 その被害者となり死亡した患者の息子・マーフィンに負い目を感じているのは、嘘をついたからだ。「もう手の施しようが・・・」などと言ったのだろう、自分の罪を隠した故に彼は彼の価値観でマーフィンに償いをしていく。スティーブンの贖罪方法は金品を送ることであり決して謝罪ではない。

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  そんなスティーブンの価値観とは全く別の考えを持つマーフィンは物事を正しい方向に進めようとする。スティーブンが犯した罪を償う方法があるとしたら金品を送ることではなく、自分も同じ目に遭うことだ、と。傷口に触れたら痛いだろ?出来てしまった傷を他の物で埋めることはできないのだ、と。

 最初はバカげてると思って相手にしていなかったスティーブンだが、ボブから始まりキムも立てなくなったことからスティーブンは、やっと戯言ではなく予言だったのだと気付く。

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  ちなみに「先生以外死ぬよ」と言われ、ボブとキムはその通りになったが妻には全く作用しなかった。では

 

 なぜ妻は病気にならなかったのか?

 

 それはこのタイトルが「聖なる鹿殺し」であり、聖なる存在であるのは童貞か処女に限定されるからだと思う。事実、キムとマーフィンには思春期特有の性の目覚めが現れる。キムの部屋に二人でくっついている最中にマーフィンが発した生理の確認は行為を考えているからだろう。しかしここで自分がキムとヤってしまえば、対象はボブだけになるためボブが発病しても「偶然」で片づけられる可能性、更にスティーブンが選ぶ苦悩という罪から逃れることは確実である。

 マーフィンは正義のために欲望をこらえ下着姿になりベッドに横たわったキムを置いて家に帰る。

 

 さらにスティーブンは一向によくならず検査結果にも異常のないボブに対して仮病、もしくは心理的な要素を確信し、自分の秘密を話すからお前も話せと強要する。そして自分はお前の年のころに自慰を覚えた、と暴露するのだが、ボブはきょとんとして自分には秘密はない、と答える。

 

 この二つの点から、聖なる鹿になり得たのは最初からボブだけだったのだ。だからキムは倒れても暫くは歩けたし、ボブよりも弱い病だったのだ。

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  さて、聖なる鹿が分かったところで、でもやったのは親父なんだから親父が死ねばよくね?と思いませんか。というか自分が子供か妻だったらたまったもんじゃないよね?その気持ちを代弁するのは妻です。

 妻は夫の告白を聞き、マーフィンに「夫の過失は置いといて自分と子供がなぜ生贄候補なのか」と問う。

 マーフィンはその問いに答えます。

 昔、ある人に自分のパスタの食べ方は親父にそっくりと言われたから、父の食べ方を継ぐのは自分だけだと思っていたが、実際パスタの食べ方なんてフォークにパスタをからませて突っ込むやり方しかないからみんな同じなのだ、と。そしてそれが父の死を聞いたときよりもショックであった、と。 

 

 このマーフィンの語りは個の剝脱=記号で平等は成り立ち、平等は正義とイコールなので、正義を求める=個の剝脱は問題ない、という返答である。公平ではないがマーフィンが求めているのは平等という名の正義だ。

 スティーブンと同僚は記号としては我々と同じ人間であるのに、患者の前では神になる。そして一度でも手術を請け負えばその後も格安で腕時計を手に入れたりといつまでも上座に立ち続けていた。

 

 ちなみに憶測だけれどこの「病気の正体」が呪術だとするなら、スティーブンが自分を殺す選択をすればマーフィンも代償として死んでいたと思う。術者が死ぬことにより呪術は解除され家族三人は生きていれたかもしれない。

 この映画のホラーたる部分と面白さは、患者の前では神ぶってやりたい放題のくせにいざ本当に自分が生贄を選ぶ神となると、自分にすり寄る家族を前に泣いたりするところかな。これも家族の中じゃなかったら日常茶飯事らしくあっさり酔った勢いで殺すんだろうに。

この映画に限らず、ある種の怒りを暴力や暴言で瞬間的に発するのではなく物語に落とし込むという持続的な労力の賜物として世間に出す、というスタイルがちぐはぐなんだけど「品のいい怒り」として伝わってくる。人は美しいものが好きだから、怒りも品でコーティングするとより選ばれる。